金金と馬鹿のように舞い上がっていた。
金を触る時には今では必ず手袋をするが、時代劇という歴史捏造か歴史を知らない作家とかが捏造した物語には嘘が満載だ。
先ず、吉原ってのが嫌われたのは裸の女を買うのに、裸金を使うと言う江戸時代の禁忌の仕来りを知らない馬鹿が時代劇のレベルを下げた。
さて金子(きんす)と言う言葉を知っているだろうか?当然糞馬鹿文化系大学出は知らない。
例外:日銀の人。
この金子というのは小判を紙で包んだものを見た事があるだろうが、それが金子である。
よく商人の金子を用立てると言うのは、この金子を意味しており、商人が金を持ち歩く際には、25両とか30両とかの金子だった。
この時代の商人は小判を裸で持つと擦れて、金粉が出ることを知っており、その知恵として金子が生まれたのである。
その結果、商人は、その金子の裏書を信じて、この裏書の信用こそが商人の信用とされていた。
大体、商人は小判を使う事もなければ、一分金や一銖金を使う事もなかった。
大体、決済は金子か、さもなくば証文で待ってもらうのである。
小判は金貨と思っている向きもあるようだが、これはデナリウス金貨と同じで、毎度毎度、銀の配合量を増やしていた。
この金の純度が高いのがナポレオン金貨であり、太鼓判(武田信玄の鋳造した金貨)である。
このナポレオン金貨は、つい最近まで欧米の経済指標で価値が表示されていた。
しかし、日本は歴史上、飛鳥時代から明治維新からちょっと経つ頃まで、金銀銅の輸出国であった。
この金の流出は、それを止める為に、鎖国をしたのだが、それも関係無かった。
今、歴史を知らない奴らしか居ない長崎の愚か者集団が、シュガーロードで長崎を売りだそうとしているが、私の近年の調査では、どうも真のシュガーロードは、実は薩摩だった。
長崎の正規の砂糖貿易よりも圧倒的に薩摩が密貿易の方が多かったのである。
一番の隠れ蓑は、何より薩摩の支配地域がサトウキビの栽培地であった。
将軍家も綱吉から吉宗にかけて砂糖の国内栽培を試みたが、四国での栽培程度が限界で需要より圧倒的に足りなかった。
困った事に外様の雄藩の薩摩は、領地のほぼ全てがサトウキビの栽培可能地域であり、また表立っての支配地である沖縄もサトウキビの栽培をしており、それ以上に、沖縄を仲介した密貿易が実行されていた。
この時に金が流出していたのだが、幕府は黙認していた。
それは日本全体が砂糖に魅了され、砂糖を消費していたのである。
ここで「ケンミンショー」の郷土料理が出てくるが、気が狂ったように砂糖を入れるのだが、これが江戸時代の砂糖の大量輸入時代に端を発しているのである。
この砂糖は、日本に最初にもたらされたのは、室町時代で、最初風の薬として使われていた。
だから砂糖は江戸時代薬種問屋が扱っていたが、一番の利鞘を稼ぎ、大抵30%以上の利益は砂糖からのものだった。
その結果、砂糖問屋としていた所が3軒ぐらいあったのである。
幕末の時代に関して、NHKの大河ドラマの洗脳で、黒船だけが、幕末の騒乱を生み出したように見せているが、それは嘘の最たるものである。
先ず大塩平八郎の乱でも分かるように、幕府は賄賂で狂っていた。
この幕府に対して貧乏藩の長州と密貿易富豪藩の薩摩が異を唱えたのである。
奇妙と言えば奇妙である。
次に、経済運営が不味くなった。
それは、賄賂政治がもたらした貧富の格差が広がり、不満が広がったのである。
そして、それは田沼意次が起こしたものだった。
徳川吉宗の小姓として出世した、この慶応の糞馬鹿と同じような、すぐ調子に乗る馬鹿が、吉宗の命がけの努力を無に帰したのである。
そして、一番問題となったのが、スッカスカの統治体制と、通貨不安が出始めた幕府だった。
今までも、金の流出の問題があったのに通商を結べば、必ず金の流出が起きる。
この極めて経済的な問題を幕府は把握していた。
殿様商売と幕府の経済感覚を、低能な糞馬鹿文化系大学出が上から目線でほざいているが、実は慶応の数兆倍の優れた経済感覚を持っていたのである。
もっとも慶応の経済感覚は0と言うのが、官界、学会でも常識だが。
その為に、幕府は苦悩していたのである。
この辺の問題は、中国の宋王朝が資金不足に依って自滅した、デフレ崩壊の経験を幕府はしっかり理解しており警戒していたのである。
それを司馬遼太郎も知らず、あんな事を書いていたのである。
大笑いであろう。
その結果、江戸時代の民は、自暴自棄になっていた。
それが「ええじゃないか講」となっていた。
これは緒方拳主演の「ええじゃないか」と言う映画に描かれている。
だが、この「ええじゃないか講」を歴史の教科書で見た事がない。
これは綺麗な綺麗な幕末を描いており、それはチンチンのないダビデ像のようなものである。
金を語るなら、この程度の事を言って貰いたいものだ。