11時15分那覇空港・・・いつものタクシー氏、砂川さんと待ち合わせる。一緒に昼飯を食べ、南部沖縄・・八重瀬町に向かった。
具志頭歴史民俗資料館。そこで、見学の申請を行い、私有地にある遺跡の鍵を借りる。
車で向かった先は、分かりずらい路地なのだが、なんとなくあの門かな?と・・・
門を開け、草の刈られた道を進むと、断崖絶壁に直線の割れ目がすごい迫力で迫る場所に着く。
現在日本で最古の人骨が発見されている「港川人」が発掘された「港川フィッシャー(割れ目の意味)だ。
1万8000年前と言われる人骨・・かなり全身骨格のそろった歴史的価値の高い、日本で一番有名な人骨だ。
現地に立つ・・・その凄味は、こうして訪ねる醍醐味でもある。
資料館に戻り、鍵を返す。そして、常設展示(200円の拝観料?)を見る。これも目的!!
沖縄の自由民権運動の父「謝花昇氏」の故郷で、資料が充実。
尚泰18年9月28日(1865年11月16日) - 明治41年(1908年)10月29日)41歳で早逝した。沖縄では教育もされ、郷土の偉人として、知らない人は居ないほどの人物らしい・・・県費留学・・県庁職員・・貧しい農村の改革などに奔走するが、本土から送り込まれ知事に赴任した奈良原繁と杣山問題(まあ、村の共同所有地・入会地を農民主導で開発するか、知事の息のかかった企業で開発するか)で対立、凄まじいパージを受け、退職を余儀なくされ、当山久三たちと、自由民権うんどうを推し進めるのだが、やがて発狂してしまうのだった。(写真1枚目は謝花昇・2枚目は当山久三)
僕らの出した田中正造のCDには、正造と当山の出会いが歌われている。当山は、残された謝花の妻子を支援しつつ、沖縄の貧困を救うためには、外国への移民しかないと、日本最多の移民を出すことになる「沖縄移民」を進めるのだった。移民の父と呼ばれている。今年は僕は春・初夏と、沖縄旅で謝花の像のたつ東風平と、久三の立つ、金武町を訪ねたのだった。
ついでに、謝花の墓も・・・・
学徒隊と言えば「ひめゆり」か?・・ひめゆりには、毎日人が絶えないが、ここも訪れ、沖縄戦の現実を感じ取るべき場所だ。
第一高女と師範学校女子部が陸軍病院に配属され「ひめゆり」と呼ばれた・・第二高女は24師団第一野戦病院に配属され「白梅」の名で呼ばれる。
他多くの高女達が戦争に駆り出されるが、やはりひめゆり・白梅、そして首里高女の「瑞泉」の隊が、動員数や戦没数(数を数え計るのはいささか不遜だが)が群を抜いているように思う。ひめゆり222名(戦没123名)白梅56名(22名)瑞泉61名(33名)のようである・・・
写真は第一野戦病院壕に立つ碑、壕の中は手術室に使われた場所・・・
小高い八重瀬グスク(まあ、戦国時代の豪族の城・祭場と考えてよい・築年代など不明・・14世紀から15世紀かね?)の中腹に壕はあった。そのグスクからの眺め・火の神を祭った祭場など・・
次に「白梅の塔」に行くのだが、途中なので、ここ「勢理グスク(じりぐすく)」その中に鎮座する、県指定民俗文化財「富盛の石彫大獅子」を見にやってきたのだった。
八重瀬岳に向かって立つこの獅子を覚えておいて欲しい。
不審火の多かったこの地域の火除けとして1689年に建てられたと伝わるが、20世紀に入り、支えきれないほどの業火にこの地は焼かれるのだった。
白梅隊のもっとも多くの犠牲者がでたところに建つ「白梅の塔」にやってきた。昭和22年1月、自然石の小さな碑を建て第1回の慰霊祭が行われた。昭和26年8月に立て替えられ、再度平成4年6月に現在のように改修されたらしい。
平成10年には、このようなものが付け加えられたか・・・?
改修され高く立派な塔を拝んで帰る人が多いだろう・・・自然石で作られた生き残った人たちが建てた最初の塔は、塔を登り、横に立ち・下を気を付けてやっと見つかる感じ・・・ひめゆりも、立派な塔の近くにひっそり、最初の塔は鎮座している。見逃すので注意だな。
塔のすぐ近くに、集団自決した壕が口をあけているのだった・・・
ひめゆりと違い、観光客をほとんど見かけないのだ・・・それでも、あたらしい千羽鶴など・・・あった。
ここへ続く1本道には、多くの慰霊の塔が建っていた。
「白梅の塔」から離れ、その一帯を散策する。
「萬魂(ばんこん)の塔」という慰霊碑が立っている。これは戦後、国吉各所に散らばっていた遺骨を拾い集め、民の手で立てられた慰霊碑だ。もちろんその遺骨とは、全て身元不明のもので、小さな慰霊碑だが、4000柱もの御霊を祀るらしい。
「眞山の塔」は、この近くの壕で集団自決した、日本兵を祀っている。他、「山形の塔」などもある。
さらに道を登り・下ると小高い丘がある。そこには、英語の碑文がある・・・
有名な、サイモン・B・バックナー中将のモニュメントだ。太平洋戦争末期の沖縄戦において、連合軍最高指揮官として従軍し戦死。アメリカ軍において、これは第二次世界大戦で最高位の階級(中将)で戦死した軍人であり、また現在においても唯一の存在である。
6月18日、日本軍の砲弾で戦死。手の施しようがなく、牛島が自決し日本の組織的戦闘が終わったのは、20日・22日・23日(説は3つ)、23日としても、風邪でも引いて宿舎にでも1週間ほどいたならば、死ななかったのにねぇ・・・彼の死で、弔い合戦の様相も加わり、さらに激しく攻撃が続き、この後の数週間で、膨大な自決者・戦死者を生むのだった。
さて、先ほどの獅子の写真・・・獅子に身を隠しながら、八重瀬岳方面の日本軍を睨む米軍の有名な写真だ。
獅子の砲弾の跡が生々しい・・・・今でも、その跡はコケなど生え色あせたが、確かに残っていたのだった・・・・
縄文の時代が過ぎて後・・・世界を見れば「戦火の絶えた」時代はまだない。
そして、世紀が進むほど、大量殺戮になっている・・・学ばないと・・・この愚かさを!!
初日から濃厚な2014沖縄の秋であった・・・・
ここまで、読んだあなたは、エライと、心から思う。