退職オヤジのひとりごと

退職オヤジが直面する新しい日々…感動か困惑か?
カオスの日々を綴ります

上杉鷹山

2021年03月05日 04時12分05秒 | テレビを見ました


NHKBSプレミアム『英雄達の選択』を見ました。

 


江戸時代屈指の名君として知られた上杉鷹山が、莫大な借金で潰れかけた米沢藩を一代で復活させるまでの話です。


日向高鍋藩主秋月種美の次男だった松三郎(鷹山)は9歳の時、米沢藩主上杉重定の養嗣子となって直松に改名しました。北九州高鍋藩から東北米沢藩へ移った訳です。
そして、15歳で元服、17歳で家督を継ぐに至りました。

よく目にする「上杉鷹山」の人物画からは、17歳の青年はイメージできなかったのですが、若くして財政危機に陥っていた藩を任されたようです。しかも、養子なのだから藩への愛着も持ちづらかっただろうし、家臣との関係も微妙です。


鷹山が継いだ米沢藩は、膨大な借金がかさみ、先代は幕府へ領地返上することまで考えたといいます。
借金の原因は、上杉謙信崇拝に基づいた藩風により、越後以来の家臣の召し放ちが少なかったこともあって独特のプライドの高さにゆえ、体面を重んじ、頑固で保守的な面があったことが一因と云われています。
米沢藩は他藩に比べて下級武士が圧倒的に多かった。それは、関ヶ原の戦いに敗れて所領を4分の1に削減されたにも関わらず、家臣に暇を出すことをせず、そのまま米沢に連れて来たからだといわれています・・・リストラはしなかったと云うことですね)

また、第3代藩主綱勝は藩士に対して倹約を命じつつ、自らは大好きな能楽にのめり込み、明暦3年(1657年)の火事のときは、城下の東600戸を焼失したにも関わらず6000人の家臣を動員して狩りを行い、それに要した費用は代官や商人から借りることで補ったとか。米沢藩の借金生活がこの時から始まったとされています。


さらに、第8代重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やしました

 

他にも、東北ならではの飢饉や、参勤交代、寛永寺普請手伝いなどが財政を逼迫させたようです。

このような窮状に陥った藩を救おうとした鷹山が、一代で財政再建をなしとげるまでには数々の壁が立ちはだかったようです。


その中でも大きな壁となったのが門閥の重臣たで、鷹山の再建政策にことごとく反発し、ついには改革廃止を求めて鷹山に直談判に及ぶ「七家騒動」が起こりました。(旧態依然とした考えの者達は、時代の流れについて行けない・・・いつの世も同じと云うことですか)

当時家臣の反発から君主が蟄居に追い込まれることは、決して珍しいことではなかったようです。


この騒動は、3日後に2人切腹及び改易、残り5人の重役は隠居及び閉門または蟄居、石高削減となり、後に教唆扇動した藩医が斬首並びに士分剥奪となりました。


温和なイメージの鷹山も切腹や斬首を命じるあたり、やはり封建制度の殿様なのだなと思いました。

でも、3日後の理由が、その間に「民意」を確認するために聞き取りをしていたと知り、ただの殿様ではないと感心しました。

 


封建制度の下で行われた改革を、現代の民主主義国家に求めることは無理があるとはいえ、国難に立ち向かう『行動力』と『徳』は、現代のリーダーが学ぶべきものだと、改めて思いました。
(米大統領が尊敬していたのも頷けます「米国大統領のケネディやクリントンが尊敬した上杉鷹山の経営改革」)

 


やはり、『成らぬは人の 為さぬなりけり』・・・できない理由ばかり並べていてもいけないのですね。

勉強になりました。

 


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