退職オヤジのひとりごと

退職オヤジが直面する新しい日々…感動か困惑か?
カオスの日々を綴ります

老婦人

2019年08月10日 18時33分52秒 | 日記

 収入のない今の私は、いわゆる『ヒモ』のような存在です。(年金支給もまだありません)

 仕事をしている妻と娘に何かしてあげられないかと考えている毎日です。(考えるだけで行動が伴わないのですが)


 その日も、車で娘を勤め先まで送り、帰路についたところでした。

 それは、車が2台やっとすれ違えるほどの狭い道でのことです。


私よりも年配のご婦人が、小さめのショッピングカートを押しながら少し上りになっているその道を歩いていました。
 
 その歩みはとてもゆっくりで、カートを杖代わりにして休み休み進んでいました。

 30mほどのこの道は、彼女をよけて車が走る余裕もなく、朝の時間帯でもあり両方向に渋滞ができました。

 残念なことに、そばを通る歩行者は先を急いでいるようでそのご婦人を追い越して行き、渋滞が長くなるにつれてそのご婦人が悪者になっていく。


 ちょうど赤信号になったので、道交法違反かもしれませんが車を離れ、婦人に駆け寄り声をかけてみました。

『ありがとうございます。大丈夫です。』と婦人。

 状況を呑み込めていないのか、それともあえて助けを寄せ付けず気丈に振る舞っているのか。

 彼女は疲れているようにも見えたので、民家の玄関前の隙間に誘導して入ってもらいました。


 私にお礼を言ってくれた婦人も、彼女のすぐ後ろにいたワンボックスの運転手には大声で何か言ってました。


 そのご婦人もワンボックスを運転していた若い女性も、なんかギスギスしている。

 決して悪い人達ではなさそうなのに。


 みんなどうしてそんな感じなんだろう。

 それぞれ都合はあるだろうが、なんか必要以上に急ぎすぎてないか? ゆとりが無さすぎるのではないか?


 暇な「退職オヤジ」が言っても説得力はないかもしれないが、暇になってみて「忙しかった自分」を振り返ると、そんな思いがしました。



 信号が青になったので、ご婦人が気になったけど、車を置きっぱなしにはできないので、急いで車に戻りその場を後にしました。

 
 


 7月12日の「バス」の件もあり、少し日本人に自信がなくなりそうで、

「頑張ろう!」

 なんて何もしないジジイのくせに考えてしまいました。

投票率Ⅲ

2019年08月09日 05時42分34秒 | 時事問題

先日、県知事選挙の入場券が郵送されてきました。
そんなことなので、「投票率低下の原因を考える③」です。



③政治に関する教育が著しく欠落しているのでは?


 これは、選挙権年齢変更によるデメリットの対応にもつながりますが、今の制度変更の下での学校教育は、初めての道を歩む人にあまりにも不親切。
 「目的地は南南東の方向にあります」
とアドバイスだけしているようで、地図やコンパスを渡されていない迷い人はどうすればいいのかわからない…みたいな感じかな。



「子ども扱い」する日本の主権者教育 → パターナリズム

 2016年以降「主権者教育」が本格的に始まったにもかかわらず、10代の投票率が大幅に下がった(以前の20代よりも低い)という事実は大きな問題として捉えるべきでしょう。

現状の「主権者教育」が抱える最大の問題点は、『知識の伝達』になっていて、使えない点だといえないでしょうか。


文部科学省が定める主権者教育の目的は、

「単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるにとどまらず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一人として主体的に担うことができる力を身に付けさせること」

で簡単にいうと、自ら社会の問題を考え、行動していく主権者を育成することです。


しかし実際には、問題解決の手段は「選挙」に偏り過ぎており、教育の多くは「仕組み」にとどまります。

過去に成立した法案がどういう問題を解決するものなのかも教えられません。

もちろん、実際の法案成立過程や各党の違い、政治家が日々何をしているかも、教えられることはほとんどないのです。

だから、その法案に対する評価のしようもなく、選挙結果を「国民の支持を得られた」と声高に主張する政治家の発言が空しく心に届かない。



教育現場では模擬投票を実施しているところもあるようですが、多くは架空の政党・候補者であり、せっかく本物の選挙があるのに、わざわざ架空の題材を作っている。(理由は文科省の『主権者教育に関する通知』での制約で、その努力自体は褒められるべきだが、もう一歩踏み込めずもったいない限りです)



例えばドイツなどの国々では、小学生の頃から、問題解決の手段として、「市役所への連絡方法」、「メディアへの連絡方法」、「デモの手順」など、段階にあった方法を教えられるようです。


ノルウェーでは、中学校の社会科などの授業の一環で、子どもたちが各党の「選挙事務所」を回り、候補者やその支援者に直接質問し、各党の違いなどをまとめたりします。

そして、選挙があれば、本物の政治家(候補者や青年部)を学校に招いて、討論会を行っており、本物の政党・候補者で模擬投票を行う…すごいです。



それに対し日本では討論会どころか、本物の政治家に会う機会もほとんどありません。

「よくわからない人たち」もしくは(スキャンダル報道などで)「イメージの悪い人たち」が主張することに対して、選挙の時だけ「興味を持て」と言われても、それは無理でしょう。

このように、海外の主権者教育(政治教育)では現実社会で“使える”ものになっているが、日本ではそうなっていません。(政治教育後進国と言わざるを得ません)



この背景の一つには、「政治的中立性」に関する考え方の違いもあるようです。


先ほど挙げた「文科省2015年10月の主権者教育に関する通知(高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について)」では、

「議会制民主主義など民主主義の意義、政策形成の仕組みや選挙の仕組みなどの政治や選挙の理解に加えて現実の具体的な政治的事象も取り扱い、・・・・具体的かつ実践的な指導を行うこと」

を明記しています。


しかし一方で、

「学校は、・・・・政治的中立性を確保することが求められるとともに、教員については・・・・公正中立な立場が求められており、・・・・法令に基づく制限などがあることに留意する」

と「政治的中立」を強調し、「教員は個人的な主義主張を述べることは避け、公正かつ中立な立場で生徒を指導すること」としています。



でも、人は「完全に政治的中立」になることができるのでしょうか。そんな人に知識ではない「生の政治教育」ができるのでしょうか。

しかしながら現状の教育現場では、もし「政治的中立」から逸脱すれば、教育委員会や政治家から指摘の対象となります。

そのため、この「政治的中立」を守るために具体的な事象を扱えない、先生は意見を述べることができない、のが正解(現実)になっているようなのです。

結果的に、上記で述べたように制度などの話にとどまり、ほとんど“使える”ものになっていないようなのです。


他方、ドイツなどは、多様な意見を扱うことで「政治的中立」を担保しており、討論会などでは、全ての政党を招くようです(イデオロギーによる「拒否」は禁じているが、先方が自主的に欠席する場合など、出席は必須ではないとのこと)。

ドイツの政治教育の指針になっている「ボイテルスバッハ・コンセンサス」が守られていれば、意見が分かれる現実の政治問題を扱っても問題ないとされています。

 ※ボイテルスバッハ・コンセンサスとは※
  1.圧倒の禁止の原則。
     教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、
     生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
  2.論争性の原則。
     学問と政治の世界において論争がある事柄は、
     授業においても議論があるものとして扱う。
  3.生徒志向の原則。
     生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、
     政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない



つまり、意見が分かれる問題について、その真ん中の立場を探したり、そもそもそういう難しい問題を扱わないというのでは政治教育は成り立たないと考えられているということでしょう。


これは、ドイツ国民が不幸な過去から学び取った成果なのでしょう。




日本の過去に対する評価は「被害者」的な表現が多いのですが、同様の歴史をたどった政治教育先進国に学んで、教育の在り方を変えていくべきだと考えます。それが投票率に反映し、新しい世界を担う政治が構築されていくと感じるのです。


今回、印象に残ったのは『パターナリズム』という言葉でした。

先生方頑張れ!

<クリスチアーノ・ロナウドの件>

2019年08月06日 18時13分03秒 | 時事問題

 韓国で試合のあったユベントスが、クリスチアーノロナウドを出場させなかったことで、大きな問題に直面しています。
 
 原因は負傷を理由に体調管理をした。中国で試合に出たのに韓国では出なかった。主催者側とクラブとの契約では45分は出場するはずだった。等々。

 ま、プレーは見たかったけど出られなかったのなら仕方がない、残念。…で、片付けるのは、私が日本人だからだろうか?


 でも、なぜ短時間でも出なかったのだろう? なぜ出たくなかったのだろう?


 原因が、日程や直前の試合内容、そして受け入れ側にもなかったか?…と考える(その原因を一点に求めるのではなく多角的に見ようとする)のは、私が日本人だからだろうか?

 ネットニュースなどでしか情報を手に出来ない私には、どのような騒ぎになっているのかは知る術もない。
 しかし、その騒ぎの断片で判断するに、かの国の政府は”鬼の首をとった”ように権利(正義)をかざすことが多いような気がします(失礼はお許しください)。
 大陸の端に位置する民族の歴史に培われた自尊心・価値観なのかもしれません。(勿論、すべての人ではありません。このような形で書くと、物事を多角的に見ない、短絡的に決めつける傲慢な奴と思われるのが辛いので)




『誇りは気高いが過剰になれば傲慢だ』

『それは苦々しいだけだ』



 これは、ゴルゴ13の94巻『誇り高き葡萄酒』でのデューク東郷?のセリフです。



私は『ゴルゴ13』が好きです。

<老害>

2019年08月03日 19時01分56秒 | 日記

私がこの春退職したのには2つの理由があります。

①定年を過ぎた

 23才で職について、ずっと60才で退職するものだと意識の片隅にありました。
 『あ~、退職するときは末娘が18になるんだな~』なんて。

 「働き方改革」でしょうか、その歳になってみたら、「まだ働け」という周りの声。
 なんとなく流れに乗って、「再任用」を1年間やってみました。

 自分では、「疲れ果てる」働き方はもうしたくない。

 でも、現実は「同じ職場」で「同じ責任」、「同じ暇なし」で「給料大幅削減」。

 お金にこだわった訳ではないが、それよりゆとりある生き方がしたい。(ゆとり世代ではないが)

 パートタイムのような「フルタイム」ではない働き方はないのかと、雇用側に聞いてみたが、制度としては有るものの、「現実はない」ときっぱり言われました。

 まだ動ける時だからこそ、時間にゆとりをもって仕事と自由を謳歌したかった。

 働き方改革は誰のためにあるのか? と思いつつ、退職しました。


②組織の中で、「目の上のたん瘤」的な年寄りはいかがなものか
 
 「亀の甲より年の功」という経験が組織に必要であることは理解しています。

私は、現場で働くとともにその組織の中間管理職的な立場にいました。

 周りにいる若い人たちは、私に気を使ってくれてとても居心地の良い職場でした。

 でも、それでいいのか? 

 誰も私を叱ってくれそうもないその組織にいることは、いわゆる『老害』ではないのか? 
このことは、定年数年前から本気で考えていました。「体力」「気力」「老害」「かかわった仕事とのしがらみ」…。


 「老害」という響きに押されて退職。でも、これでよかった。

 定年という初めての経験は、とても衝撃的でした。が、経験してよかったと思う。




 昨日、久々に野暮用で元の職場に行ってみました。

気を使ってくれていた仲間は、笑顔で迎えてくれて派手なTシャツをプレゼントしてくれました。

その笑顔には嘘はないと思う。



 一方、上司とある若者には、別室で「もう来ないでくれ」と言い渡されました。

別に恨む訳でもなく「老害」を改めて実感しました。

心の中には「かかわった仕事とのしがらみ」が吹っ切れずに渦巻いているのですが、仕方がないと割り切らなくてはいけません。


退職して4ヶ月も経とうかという今この話題です。

 
 まだまだ修行が足りません。

ニュース

2019年08月03日 04時09分32秒 | 時事問題
考えなくてはいけないニュースがテレビ画面を席巻しています。

外交はニュースとして表に出てこないものも多くありそうで、よくわかりません。(日本は公文書の公開の習慣が徹底されてなく、公開されても黒く塗りつぶしたお世辞にも公開とは言えない文書を出す有様。もっとも文書があるだけましで、記録さえ取らない(あえて残さない)ことも有るようなので。)
また、展開が早く私の頭では学習が追い付かないです。


しかし、マスコミの取り上げるニュースには意外と流行り廃りがありそうで、今起こりつつあるものに集中してしまうのは仕方がないことなのでしょうか。

物忘れがひどい国民の一人である私としては、「今起こりつつある問題」とともに、「未だ解決できていない問題」も取り上げてほしい。
面白みに欠けるかもしれませんが。


それにしてもネットのニュースを見る限り、隣国との関係がひどい。

ニュースでは「傾きかけた政権(政権批判が生まれている国民)を反日運動を展開することにより、矛先を海外に向け支持率の回復を図る」旨の内容をよく目にします。

ひどい話です、反日を愛国と同一視するなんて。

そういえば海の向こうでも、内政の不調を「過激な移民政策や他国に難癖をつけ紛争を仕掛けることで煙幕を張る」なんてことをやっているような…。

世界は大丈夫なのでしょうか。自国ファーストで国境に大きな壁を作ってしまって。

ネットで情報はいち早く伝わるのに、意見交換は遅々として進まないなんて皮肉です。

気がつけば、わが日本でも今「嫌いな国・切り捨てていい国」みたいな言動が増えているような…。
これって、「消費税」や「沖縄」など批判のある内政や忘れかけた「もり・かけ」などの煙幕?
へそ曲がりのジジイは考えました。

でも、「穿った見方」も、物事を違った角度から見た異見の一つですよね。これは、民主主義に不可欠なものと自分に言い聞かせるジジイです。

  追:「穿った見方」は本来『物事の本質を捉えた見方』という意味
    だそうで、
    私の場合は「捻くれた見かた」が正しいかもしれません。