時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

見せてあげる

2013年04月02日 | 
娘はトイレに入り、うんちが出るとたいていのばあい便座に座ったまま、

で~~た~~~~!

と、大きな声をあげます。これは「見に来て」とわれわれを呼んでいるのでして、嫁さんか私のいずれかが見に行くことになります。トイレで用をたせるようになってからわりとすぐ、ちょっと便が出にくかったりすることがあって(その逆でゆるい場合も)、「出たら呼んでね、チェックするから」と言い聞かせて、見に行って「いいウンチだねー」とかなんとかコメントしてた時期があります。ちかごろは呼ばないこともあるし、幼稚園ではふつうに自分で済ませているようですが、今も原則的には、来て見てコメントしてほしいようです。

昨晩も呼ばれて私が見に行き「いいウンチが出たねー」と感想を述べると満足そう。見せてもらってうれしいようなものではないですが、こちらへの愛着がなければしないことでしょうし、いずれ、どんなに頼んでも見せてくれなくなるのは確実。服を着なおすのを手伝いつつ「いつまでこうやってウンチ見せてくれるかな」とつぶやくと、こちらの言うことを常に注意深く聞いている彼女、

死ぬまで見せてあげるよっ

こちらは苦笑。トイレから戻ってすぐ嫁さんに「ということは、俺はわりとすぐに死なないといけないらしい(じきに見せてくれなくなるだろうから、その頃に)」と報告。

傍から見れば妙な光景でしょうが、こういうような場合、英語で話します。「すぐに死ぬ」とか言うと娘が泣き出しかねないから。とはいえ、娘のほうから「死ぬ(まで)」ということばが出たのはここまで記憶になく、どういうことか不明ですが、彼女の中でさらに進行中の何らかの変化を反映しているのかもしれません。

先日、西原理恵子さんの『生きる悪知恵』(2012 文藝春秋)という本を読んだら「お父さんにとっては毎日がカウントダウン」とありました。この「ウンチ見ろ」のカウント・ゼロもそう遠くはないことでしょう。その日まで存分に見せてもらうことにします。

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