今日は一日
ベットに寝そべって
あれこれと
神話を読んでいた
神話は
熱狂を求める宗教以前の
数万年間の氷河期に培われてきたもので
個々人にとっては
かっての子供時代に相当するのもの
「もはや存在せず、恐らく決して存在 しなかったし、これからも多分永久に 存在しないであろうが、それについて 正確な観念をもつことは、われわれの 現在の状態をよく判断するたにに必要 であろうような一つの状態をよく知る」(ルソーの言葉より)
それに比べると宗教は
つい最近の数千年間の
農業や国家の誕生以後に生まれたもの
個々人が
社会へと乗り出してゆかなばならない
青年時代以後に相当するもの
民俗学者宮本常一についてのノンフィクション作家佐野眞一さんが語った言葉からの引用をー
《宮本常一の精神ってのは一体何か。僕はよく言いますけども「大文字で語るな」ということなんです。たとえば、僕は小泉純一郎というのは始めっから嫌いでして、なぜかと言うとすべて大文字なんです。「改革なくして成長なし」と。始めは騙されるっていいますかね、なんか口当たりがいいから。しかしよく考えてみると、何も言ってない。それがだんだん化けの皮が剥がれてきた。格好はつけてるけれども、人の胸に落ちない、感動させない。そういう言葉を僕は「大文字言葉」と呼んでいます
-中略ー
「ふるさとをよくしよう」なんてお題目を唱えたってよくなりっこないですよ。お互い、たとえば隣に住んでる人間がどういう人間で、どういう志を持ってるのか、その志は手を携えることができるのか――お互いが知り合うことがなければ、そんなもの絵に描いた餅ですよね。人と人の関係だけじゃなく、人と地域の関係もそうですね。自分が生まれた地域って一体どういう地域なんだと言うことを知らない限り、地域を良くしようと言ったところで、それは結局のところお題目に過ぎない》
個々人もまた、折に触れて
自分の神話時代を振り返ることが必要なのかもしれない
何故なら
人生とは
一つの方向以外の
様々な方向の断念であるにしても
その様々な方向への発展の総体が
人間社会や
人類の文化や文明であるはずだから
ほとんどの国民が反対しているこんな制度を何故強行なのだろうか?人を裁き、死を求刑するというのは、人間として最も難しい行為だと思う。だからこそ裁判官等の法曹関係者には、難しい試験や、それに見合った高い社会的地位が与えられてきたのではないのか。
とりわけ下記のように冤罪が更に横行しそうなこの国の裁判では・・問題点があまりにも多すぎると思う。
最大の問題点は、冤罪が多い上に、さらに冤罪が増えそうな点だ。捜査過程の映像化なしの上に、「裁判迅速化」とかで証拠も裁判官が選択して選んだものだけになるという恐ろしさだ。
アメリカや韓国で実施されているといっても、アメリカの場合は、捜査段階では、弁護士立会いで、完全に映像化されているというし・・韓国の場合は、従来の裁判か裁判員制度かを選択可能だという。
その他にも問題なのはー
①多数決で決定といっても裁判員だけの過半数は認められず、必ず裁判官が一人以上必要という点。裁判官は狭い官僚ピラミッド社会なので、これでは裁判官の決定の飾り物の裁判員にすぎない。
②毒カレー事件のような長期裁判や、その内容を言うと罪を問われるという矛盾(裁判官は罪は問われないのに)
③恐ろしい犯罪現場写真等で精神的ショックを受ける人々が増えるのではと思う。(プロとしての教育を受け、それに見合う高い社会的地位の裁判官と何故同じ事をやらされるのか?)
ベットに寝そべって
あれこれと
神話を読んでいた
神話は
熱狂を求める宗教以前の
数万年間の氷河期に培われてきたもので
個々人にとっては
かっての子供時代に相当するのもの
「もはや存在せず、恐らく決して存在 しなかったし、これからも多分永久に 存在しないであろうが、それについて 正確な観念をもつことは、われわれの 現在の状態をよく判断するたにに必要 であろうような一つの状態をよく知る」(ルソーの言葉より)
それに比べると宗教は
つい最近の数千年間の
農業や国家の誕生以後に生まれたもの
個々人が
社会へと乗り出してゆかなばならない
青年時代以後に相当するもの
民俗学者宮本常一についてのノンフィクション作家佐野眞一さんが語った言葉からの引用をー
《宮本常一の精神ってのは一体何か。僕はよく言いますけども「大文字で語るな」ということなんです。たとえば、僕は小泉純一郎というのは始めっから嫌いでして、なぜかと言うとすべて大文字なんです。「改革なくして成長なし」と。始めは騙されるっていいますかね、なんか口当たりがいいから。しかしよく考えてみると、何も言ってない。それがだんだん化けの皮が剥がれてきた。格好はつけてるけれども、人の胸に落ちない、感動させない。そういう言葉を僕は「大文字言葉」と呼んでいます
-中略ー
「ふるさとをよくしよう」なんてお題目を唱えたってよくなりっこないですよ。お互い、たとえば隣に住んでる人間がどういう人間で、どういう志を持ってるのか、その志は手を携えることができるのか――お互いが知り合うことがなければ、そんなもの絵に描いた餅ですよね。人と人の関係だけじゃなく、人と地域の関係もそうですね。自分が生まれた地域って一体どういう地域なんだと言うことを知らない限り、地域を良くしようと言ったところで、それは結局のところお題目に過ぎない》
個々人もまた、折に触れて
自分の神話時代を振り返ることが必要なのかもしれない
何故なら
人生とは
一つの方向以外の
様々な方向の断念であるにしても
その様々な方向への発展の総体が
人間社会や
人類の文化や文明であるはずだから
ほとんどの国民が反対しているこんな制度を何故強行なのだろうか?人を裁き、死を求刑するというのは、人間として最も難しい行為だと思う。だからこそ裁判官等の法曹関係者には、難しい試験や、それに見合った高い社会的地位が与えられてきたのではないのか。
とりわけ下記のように冤罪が更に横行しそうなこの国の裁判では・・問題点があまりにも多すぎると思う。
最大の問題点は、冤罪が多い上に、さらに冤罪が増えそうな点だ。捜査過程の映像化なしの上に、「裁判迅速化」とかで証拠も裁判官が選択して選んだものだけになるという恐ろしさだ。
アメリカや韓国で実施されているといっても、アメリカの場合は、捜査段階では、弁護士立会いで、完全に映像化されているというし・・韓国の場合は、従来の裁判か裁判員制度かを選択可能だという。
その他にも問題なのはー
①多数決で決定といっても裁判員だけの過半数は認められず、必ず裁判官が一人以上必要という点。裁判官は狭い官僚ピラミッド社会なので、これでは裁判官の決定の飾り物の裁判員にすぎない。
②毒カレー事件のような長期裁判や、その内容を言うと罪を問われるという矛盾(裁判官は罪は問われないのに)
③恐ろしい犯罪現場写真等で精神的ショックを受ける人々が増えるのではと思う。(プロとしての教育を受け、それに見合う高い社会的地位の裁判官と何故同じ事をやらされるのか?)