金委員長が米国の反応を見誤ったことは間違いない。首脳会談を終えてホテルへ戻る、車中の金委員長の顔は引きつっていた。3月1日未明、北朝鮮の李容浩外相が記者会見を行って、北朝鮮の要求は「一部の制裁解除だった」と釈明したが、会談のわずか8時間後にこうした会見をしなければならないほど、会談決裂の衝撃が大きかったということだろう。
トランプ大統領にしても、北朝鮮が非核化に対しこれほど強い抵抗を示すと考えていなかったのではないか。通訳だけを交えた1対1の会談に続いて、側近を交えた拡大会合でどのようなやり取りがあったかは明らかではないが、かなり激しいやり取りが繰り広げられたのは間違いない。それでも大きな溝を埋め埋めることはできなかった。
トランプ大統領が国内の政治情勢を重視するあまり、情報機関や北朝鮮との交渉経験者が警鐘を鳴らしていたにもかかわらず無視してきたことが、今回の結果につながったといえる。
こうなると、金委員長は習近平中国国家主席や、文在寅韓国大統領にすがっていかざるを得ない。ベトナムからの帰途、中国で首脳会談があれば注目だ。ただ、トランプ大統領が会見で言ったように、北朝鮮が直ちに核ミサイルの実験を再開して挑発するような行動に出ることはないと見られる。米国の攻撃を最も恐れているのは、金委員長だからだ。しかし、今後制裁がさらに強化されれば、どうなるかはわからない。
よほど追い詰められないと
非核化は考えない
今回の交渉を通じて再確認できたことは、北朝鮮には非核化に誠実に取り組む姿勢が見られないということだ。
もともと北朝鮮政府は、夫婦間でも互いの反政府的な行動を密告させるなど、国民を一切信用していない。そのような国は、米国が体制を保証し経済協力を申し出ても、核を放棄すれば生き残れないと考えていても不思議ではない。北朝鮮が非核化するなどと期待感を持ってはいけないのだ。核放棄を促すためには、強い制裁によって「核保有のままでは出口がない」との現実を突きつける以外にない。
一部の人道支援の再開はいいとして、韓国の文大統領が提案した、南北の経済協力をテコに北朝鮮の譲歩を引き出すという考えは危険だ。韓国政府は、開城工業団地を再開しても労働者の賃金を労働者本人に直接支払えば制裁違反にならないとして、米国に南北事業の再開を認めるよう提案したというが、労働者に支払っても北朝鮮政府にピンハネされるだけで結果は同じだ。
加えて、工場稼働のための電力など、エネルギーの供給は制裁違反になる。北朝鮮に対する制裁を解除しなくても、韓国が制裁破りをする形になれば、世界各国、特に中国やロシアも堂々と制裁破りをすることになる。つまり南北交流事業の再開は、経済制裁の事実上の緩和なのだ。
終戦宣言にしても、在韓米軍の地位に影響を与えないということにはならない。終戦となれば、国連軍が駐留する根拠はなくなり、日本が国連軍に対して行っていた後方支援業務も終了することになる。そうなれば、在韓米軍の行動にも影響が及ぶことは必至だ。
韓国にとっても
大きな痛手
今回の米朝会談の決裂は、韓国の文政権にとっても大きな痛手だ。南北の交流事業にめどをつけ、北朝鮮との関係促進を一気に進めようとするもくろみが崩れてしまったからだ。北朝鮮との融和を政権の最大の課題とする文政権にとっては予想外のことだろう。
文政権にとっては下降気味の支持率を上げる唯一の“カード”が北朝鮮との緊張緩和だった。だが、米朝会談決裂によって金委員長がソウルを訪問しても“うまみ”がないとなれば、相互訪問は実現しないかもしれない。そして政権浮揚の機会も失われることになる。
逆に、「米国との関係がうまくいかないときには南北関係に軸足を移す」というこれまでの北朝鮮の行動パターン通り、ソウル訪問が実現する可能がないわけでもないが、いずれにせよ文政権は、米国と北朝鮮との仲を取り持とうと一層必死に動いてくるだろう。
最後に、今回の米朝首脳会談で拉致問題を取り上げられたことは、日本側がこれまでトランプ大統領に拉致問題の重要性を訴えてきた成果といえる。ただ、金委員長がいつ日本との関係改善に乗り出してくるかは不透明だ。
米国との交渉再開のため、日本の役割を意識したときがいいきっかけとなるだろう。北朝鮮は、一筋縄ではいかない交渉相手だ。北朝鮮の意図をよく分析し、その機会をうまく活用していくかが重要である。
(元・在韓国特命全権大使 武藤正敏)