6月6日夜、練馬文化センター小ホールで伊藤真・法学館伊藤塾塾長の9条は日本の誇り、世界の宝という講演を聞いた(主催・ねりま九条の会)。
伊藤さんは、背が高く、大学時代はオーケストラのラッパ(トランペット)吹きだったという。そしていまは「憲法の伝道師」の異名をとる。
1時間の講演だったが中身が濃く、たっぷり3時間分の内容があった。早口の講演だったのでつながりかわかりにくいところもあったが、ポイントを紹介したい。
9.11同時多発テロ(2001年)の1ヵ月後、米英軍はアフガン空爆を開始した。その際、西日本銀行勤務の息子を世界貿易センタービル102階で亡くした父・中村佑さんは、マスコミの取材に応え「せがれは悲惨なテロに巻き込まれ、本当にくやしいが、テロに武力報復すれば暴力の繰り返しになるだけだ。ほかの手立てを考えるべき」と述べられた。人を愛する、人を尊ぶ、かけがえのない命を大切にする、これこそ憲法の原点である。憲法の根底には「愛の気持ち」がある。
伊藤さんの話はこんなふうに始まった。
●「戦争し続ける国」から「戦争をしない国」へ
日本は60年前まで「戦争し続ける国」だった。明治維新直後の1874年、日本は台湾出兵を実施したときから71年間侵略を続け、加害国であり続けた。最後の数年、日本は被害国にもなった。日本人は加害者にもなり、被害者にもなった。
「戦争し続ける国」の体制を維持するには、戦死という悲しいできごとを名誉あるもの、美しいものに転換する必要があった。それにはかなり大がかりな仕組みが必要で、宗教や教育を利用した。
それを断ち切り「戦争をしない国」へ変えたものが、政教分離、教育基本法、そして憲法であり、これが戦後レジームである。
●新憲法草案を念頭においた自民党の改憲論
いま安倍政権は「戦後レジームからの脱却」をキャッチフレーズに改憲を目指している。安倍政権は選挙で「改憲に賛成か反対かを問う」というが、よりよくする改憲なら自分も賛成である(たとえば平和的生存権)。
しかしこの改憲の賛否は、たんなるサロン談義や抽象的に改憲の賛否を問うものではなく、自民党の新憲法草案(2005年10月28日)を念頭においたものである。
この草案には3つの大きな問題がある。
●まず国があり、その下に個人がある
新憲法草案前文で「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とし、12条国民の責務では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」としており、愛国の義務のもとに個人の自由や権利を制限し、公益や秩序を重視している。これは、まず国が大切で、その下に個人がある、「国家のための国民」という考え方である。
●アメリカ軍といっしょに軍事行動をする国へ
改憲論者は9条2項は削除するが1項「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」をそのまま残すので平和憲法であることは変わらないという。
しかし2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」が問題なのである。1954年の自衛隊設置に際し、政府・自民党は2項が禁じる「戦力」の定義を「自衛のための必要最小限度を超える実力」へと変更し、自衛隊は「我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織」なので合憲とし、いまもこの見解を変えていない。つまり自衛のための必要最小限度の実力組織なら現行憲法でも保持可能であり、「それ以上のこと」をしてはじめて違憲なのである。
これでは足りない、「自衛のための実力組織」では足りない、というのが改憲論者である。では何をしたいのかといえば「それ以上のこと」、すなわち米軍といっしょに軍事行動をしたいということだ。
新9条2項で自衛軍創設を規定し、改憲論者は「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」と「法律による縛り」を強調するが、法律なら時の政権が変えることができる。だから歯止めにはならない。
●格差社会の拡大
新憲法草案では、22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」の「公共の福祉に反しない限り」を削除している。
現行憲法には「公共の福祉」が4回出てくる。うち2つは「他人に迷惑をかけない範囲」という意味だが、22条でいう公共の福祉は「弱者を守るために経済的強者の権利を制限する」という意味である。
この削除は「経済的強者にはちょっとガマンしてほしい」という考えを「格差社会万歳、弱者は自己責任で」という考えに転換することを意味する。
格差が広がれば「自衛軍に就職してほしい、リクルートしてイラクに行こう」という募集もやりやすくなる。
●法律と憲法の違い
法律は正しいという「常識」がある。なぜ正しいかというと、法律は国民主権のもと「国民の多数派の意志に従って利益衝突を調整するもの」だからだ。しかし多数派に従う法律はつねに正しいのだろうか。
ヒットラーは『我が闘争』で「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」と書き、言葉は短く断定と繰り返しを多用し、宣伝の力で国民を熱狂させ国民の賛意を得てファシズムを推進した。日本でも1925年に治安維持法が成立したとき、反対したのは衆議院で18人、貴族院ではわずか1人だった。
イラクの大量破壊兵器疑惑にみられるように、だれもが情報操作されたり、ムードに流されたり、目先の利益に目を奪われることがある。国民の多数意見に従っても過ちを犯す危険はある。過去にいろんな過ちを犯してきた。
そのときどきの多数決で奪ってはいけないのが人権であり、やってはいけないことが、たとえば戦争である。
そこで冷静なときに、国家がやってはいけないことを決め、あらかじめ歯止めを決めておくものが憲法である。法律は、国民の自由を制限し社会の秩序を維持するものだが、憲法は、国家権力を制限し国民の人権を保障するものである。
一口に改憲といっても、政治家が縛りをゆるくしようとする改憲と、国民が縛りを強くしようとする改憲ではまったく意味合いが異なる。
●弱者のための憲法
自分は20代前半まで強者の側にいた。日本国籍をもち、健康で背も高く、お勉強もできた。そんな人間に憲法のことなどわかるはずがない。圧倒的多数の人にとって憲法は自分に関係ないものなのだ。
しかし少数派・多数派はいつ逆転するかわからない。たとえば、いつかは自分も年をとり社会的弱者になる。病気になってはじめて健康のありがたさがわかる。
経験することがいちばんだが、人間はイマジネーションを働かせることができる。たとえば1週間、携帯を取り上げられ狭い空間に監禁されるとどんな気持ちになるか、想像できるだろう。
●軍事力によっては国民の生命や財産は守れない
軍隊を持つのが「普通の国」であり、世界の常識という言い方がある。
しかし200年前の「非常識」が100年後に「常識」となることもある。たとえば奴隷制である。9条で暴力の連鎖を断ち切る、これは非常識かもしれないが、人類の壮大な実験である。
中国や北朝鮮の軍事力が「脅威」だという人がいる。軍事力をもって脅威とするなら、アメリカこそ世界最大の「脅威」ということになる。そうではないだろう。信頼関係を築けているかどうかが「脅威」の本質なのである。また9.11やロンドンのテロを見ても、軍事力によっては国民の生命や財産は守れないことは明らかだ。
軍事力に頼らず、貧困や差別をなくす国際貢献による平和という主張は、軍隊を持たない日本だからこそ説得力をもってアピールできるのである。
●9条は世界の宝
憲法前文の第2段落に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という文言がある。
普通の憲法は自国のことしか考えていないが、この憲法には全世界の国民のことまで書いてある。1ランク上の憲法であり、だから世界の宝なのだ。
理想と現実が食い違っているので憲法を変えようという声もある。そういう人は、実際には人が平等ではないから第14条「すべての国民は、法の下に平等」まで変えろというのだろうか。
理想と現実が違うからこそ志が生まれる。青臭いといわれようと、自分は理想を忘れず、志を高くもち続けたい。
☆ねりま九条の会は積極的な活動を続けており、ポケットティッシュまで作ったのは練馬だけだという。地域の会は24あり、たとえば土建練馬支部九条の会は毎日宣伝カーを出している。今後「日本の青空」(大沢豊監督)の上映会を秋に行い、来年2月にはイマジン平和コンサートを行うそうだ。
伊藤さんは、背が高く、大学時代はオーケストラのラッパ(トランペット)吹きだったという。そしていまは「憲法の伝道師」の異名をとる。
1時間の講演だったが中身が濃く、たっぷり3時間分の内容があった。早口の講演だったのでつながりかわかりにくいところもあったが、ポイントを紹介したい。
9.11同時多発テロ(2001年)の1ヵ月後、米英軍はアフガン空爆を開始した。その際、西日本銀行勤務の息子を世界貿易センタービル102階で亡くした父・中村佑さんは、マスコミの取材に応え「せがれは悲惨なテロに巻き込まれ、本当にくやしいが、テロに武力報復すれば暴力の繰り返しになるだけだ。ほかの手立てを考えるべき」と述べられた。人を愛する、人を尊ぶ、かけがえのない命を大切にする、これこそ憲法の原点である。憲法の根底には「愛の気持ち」がある。
伊藤さんの話はこんなふうに始まった。
●「戦争し続ける国」から「戦争をしない国」へ
日本は60年前まで「戦争し続ける国」だった。明治維新直後の1874年、日本は台湾出兵を実施したときから71年間侵略を続け、加害国であり続けた。最後の数年、日本は被害国にもなった。日本人は加害者にもなり、被害者にもなった。
「戦争し続ける国」の体制を維持するには、戦死という悲しいできごとを名誉あるもの、美しいものに転換する必要があった。それにはかなり大がかりな仕組みが必要で、宗教や教育を利用した。
それを断ち切り「戦争をしない国」へ変えたものが、政教分離、教育基本法、そして憲法であり、これが戦後レジームである。
●新憲法草案を念頭においた自民党の改憲論
いま安倍政権は「戦後レジームからの脱却」をキャッチフレーズに改憲を目指している。安倍政権は選挙で「改憲に賛成か反対かを問う」というが、よりよくする改憲なら自分も賛成である(たとえば平和的生存権)。
しかしこの改憲の賛否は、たんなるサロン談義や抽象的に改憲の賛否を問うものではなく、自民党の新憲法草案(2005年10月28日)を念頭においたものである。
この草案には3つの大きな問題がある。
●まず国があり、その下に個人がある
新憲法草案前文で「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とし、12条国民の責務では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」としており、愛国の義務のもとに個人の自由や権利を制限し、公益や秩序を重視している。これは、まず国が大切で、その下に個人がある、「国家のための国民」という考え方である。
●アメリカ軍といっしょに軍事行動をする国へ
改憲論者は9条2項は削除するが1項「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」をそのまま残すので平和憲法であることは変わらないという。
しかし2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」が問題なのである。1954年の自衛隊設置に際し、政府・自民党は2項が禁じる「戦力」の定義を「自衛のための必要最小限度を超える実力」へと変更し、自衛隊は「我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織」なので合憲とし、いまもこの見解を変えていない。つまり自衛のための必要最小限度の実力組織なら現行憲法でも保持可能であり、「それ以上のこと」をしてはじめて違憲なのである。
これでは足りない、「自衛のための実力組織」では足りない、というのが改憲論者である。では何をしたいのかといえば「それ以上のこと」、すなわち米軍といっしょに軍事行動をしたいということだ。
新9条2項で自衛軍創設を規定し、改憲論者は「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」と「法律による縛り」を強調するが、法律なら時の政権が変えることができる。だから歯止めにはならない。
●格差社会の拡大
新憲法草案では、22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」の「公共の福祉に反しない限り」を削除している。
現行憲法には「公共の福祉」が4回出てくる。うち2つは「他人に迷惑をかけない範囲」という意味だが、22条でいう公共の福祉は「弱者を守るために経済的強者の権利を制限する」という意味である。
この削除は「経済的強者にはちょっとガマンしてほしい」という考えを「格差社会万歳、弱者は自己責任で」という考えに転換することを意味する。
格差が広がれば「自衛軍に就職してほしい、リクルートしてイラクに行こう」という募集もやりやすくなる。
●法律と憲法の違い
法律は正しいという「常識」がある。なぜ正しいかというと、法律は国民主権のもと「国民の多数派の意志に従って利益衝突を調整するもの」だからだ。しかし多数派に従う法律はつねに正しいのだろうか。
ヒットラーは『我が闘争』で「大衆の受容能力は非常に限られており、理解力は小さいが、そのかわり忘却力は大きい」と書き、言葉は短く断定と繰り返しを多用し、宣伝の力で国民を熱狂させ国民の賛意を得てファシズムを推進した。日本でも1925年に治安維持法が成立したとき、反対したのは衆議院で18人、貴族院ではわずか1人だった。
イラクの大量破壊兵器疑惑にみられるように、だれもが情報操作されたり、ムードに流されたり、目先の利益に目を奪われることがある。国民の多数意見に従っても過ちを犯す危険はある。過去にいろんな過ちを犯してきた。
そのときどきの多数決で奪ってはいけないのが人権であり、やってはいけないことが、たとえば戦争である。
そこで冷静なときに、国家がやってはいけないことを決め、あらかじめ歯止めを決めておくものが憲法である。法律は、国民の自由を制限し社会の秩序を維持するものだが、憲法は、国家権力を制限し国民の人権を保障するものである。
一口に改憲といっても、政治家が縛りをゆるくしようとする改憲と、国民が縛りを強くしようとする改憲ではまったく意味合いが異なる。
●弱者のための憲法
自分は20代前半まで強者の側にいた。日本国籍をもち、健康で背も高く、お勉強もできた。そんな人間に憲法のことなどわかるはずがない。圧倒的多数の人にとって憲法は自分に関係ないものなのだ。
しかし少数派・多数派はいつ逆転するかわからない。たとえば、いつかは自分も年をとり社会的弱者になる。病気になってはじめて健康のありがたさがわかる。
経験することがいちばんだが、人間はイマジネーションを働かせることができる。たとえば1週間、携帯を取り上げられ狭い空間に監禁されるとどんな気持ちになるか、想像できるだろう。
●軍事力によっては国民の生命や財産は守れない
軍隊を持つのが「普通の国」であり、世界の常識という言い方がある。
しかし200年前の「非常識」が100年後に「常識」となることもある。たとえば奴隷制である。9条で暴力の連鎖を断ち切る、これは非常識かもしれないが、人類の壮大な実験である。
中国や北朝鮮の軍事力が「脅威」だという人がいる。軍事力をもって脅威とするなら、アメリカこそ世界最大の「脅威」ということになる。そうではないだろう。信頼関係を築けているかどうかが「脅威」の本質なのである。また9.11やロンドンのテロを見ても、軍事力によっては国民の生命や財産は守れないことは明らかだ。
軍事力に頼らず、貧困や差別をなくす国際貢献による平和という主張は、軍隊を持たない日本だからこそ説得力をもってアピールできるのである。
●9条は世界の宝
憲法前文の第2段落に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という文言がある。
普通の憲法は自国のことしか考えていないが、この憲法には全世界の国民のことまで書いてある。1ランク上の憲法であり、だから世界の宝なのだ。
理想と現実が食い違っているので憲法を変えようという声もある。そういう人は、実際には人が平等ではないから第14条「すべての国民は、法の下に平等」まで変えろというのだろうか。
理想と現実が違うからこそ志が生まれる。青臭いといわれようと、自分は理想を忘れず、志を高くもち続けたい。
☆ねりま九条の会は積極的な活動を続けており、ポケットティッシュまで作ったのは練馬だけだという。地域の会は24あり、たとえば土建練馬支部九条の会は毎日宣伝カーを出している。今後「日本の青空」(大沢豊監督)の上映会を秋に行い、来年2月にはイマジン平和コンサートを行うそうだ。