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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

「おそ松くん」の赤塚不二夫のスタジオ・取り壊し記念展

2022年11月14日 | 美術展など

2008年に亡くなった赤塚不二夫のフジプロ旧社屋が老朽化のため取り壊されることになり、記念の展覧会が行われた。赤塚が35歳から実質的に作家活動を終える67歳まで過ごした仕事場兼自宅だった。数々の名作、そしてドンチャン騒ぎが繰り広げられた場所だった。
わたくしが子どものころのマンガで、一番強く印象に残っているのは赤塚不二夫とちばてつやである。赤塚はなんといっても「おそ松くん」、その後は「天才バカボン」「もーれつア太郎」、ちばは「ちかいの魔球」「紫電改のタカ」「ハリスの旋風」だ。
おそ松くんは、主役の六つ子と両親、トト子ちゃんだけでなく、チビ太、イヤミ氏、デカパン、ハタ坊、ダヨーンのおじさんなど脇役のキャラクターが独創的だった。サザエさんのようにほのぼのした作調だが、その後の赤塚マンガを予兆させる超・常識のギャグも織り交ぜられていた。
植木等の「ハイそれまでョ(1962)、「お座敷小唄(1964.8、和田弘とマヒナスターズと松尾和子)、テレビでは「8マン(TBS)、「てなもんや三度傘(朝日放送、TBS)が流行っていた時代だ。

たしか東京新聞で「フジオプロ旧社屋をこわすのだ!!展」が開催されることを知り、3日くらい後、ウェブ検索して申し込もうとすると、すでに完全に売り切れ、なんと3日で完売 ガーン!「会期延長があるかも」と匂わせる文言をみたので、数日チェックを続け、「延長」のアナウンスを発見。「10月17日から発売開始」とあったので16日深夜パソコンの前に待機し、やっとチケットが取れた。
駅から少し迷いながらフジオプロ旧社屋に指定時刻10分ほど前に着くと、カメラをぶら下げた10人ほどの客がたむろしていた。平日午後だったのでおそらく熱心な赤塚マンガファンだろう。意外に若い世代が多かった。定刻にドアが開きスタッフが顔を出した。
ちゃんと検温し受付票に記入提出して入場。1回の定員は20人なので、思ったほど混み合ってはいない。
入口のパネルに「1970年この場所の古い木造家屋に引っ越してきたフジオプロは78年に鉄骨造地上3階建ての仕事場兼赤塚不二夫の自宅に建て替えられ、改修を繰り返したが老朽化が進んだ。昨年事務所機能を中野区弥生町に移し、この社屋を取り壊す決心をした
その前に一緒に楽しいことをすることこそフジオプロ的なのではないか、と考えた。そこで「バカは真面目に」をモットーに、旧社屋で展覧会やイベントを開催し、赤塚不二夫の自由なスピリットをみなさまに感じていただければうれしい」とのフジオ・プロダクション社長・赤塚りえ子名の「あいさつ」が掲示されていた(りえ子は赤塚の長女)
下に、建物の説明として「新築時、1階は事務所、打ち合わせ室、アシスタントの風呂場、書庫として使われていた。90年代の改装で壁を壊して事務所を広くし、アシスタント部屋を2階から1階に移動、風呂場は打ち合わせ室に変わった。昼夜問わず各社の編集者が出入りし、アシスタントが泊まり込む「下落合の不夜城」といわれた」とあった。
(この「下落合」だが、現在の住所はたしかに中落合1丁目だ。しかし「下落合焼とりムービー」という映画もあったので、かつては下落合だった。1965年に住居表示の変更があり、下落合の一部が中落合や中井に表示変更されたようだ)

1階は赤塚不二夫をオマージュしたアート作品の展示。2階はもとは赤塚家の生活空間だった場所でリビングの壁や天井に赤塚のスナップ写真がたくさん貼り付けてある。3階は赤塚の原画や出来た雑誌、キャラクターのグッズ、付録として4階の小部屋に「めいそう」というビデオアート作品が展示されている。
1階には、黒田征太郎、田名網敬一、しりあがり寿といった超有名な人から、わたしは知らない人まで16人の作品が並ぶ。タイトルは「このあとニャロメが「おれと結婚しろニャロメー」と叫ぶ」「アカツカさん」「天才バカボン」「レレレのおじさん、アラスカのフリーウェイを掃除中なのだ」などたしかに赤塚へのオマージュだ。もちろん作品のモチーフが赤塚マンガという作品もあった。たとえば京都の小学生時代のみうらじゅんが自宅前で「シェー!」のポーズをし夕焼け空にイヤミの顔が浮かび上がる絵だ。野上真宏「天才バカボン」はコンサート会場の控室のような狭い部屋に男女7人がたむろしている。ある人はギターをつまびき、2人は、マンガ週刊誌を読みふける。70年前後と思われる大きなモノクロ写真の作品だった。

わたしが一番気に入ったのは田名網敬一「秘密のアッコちゃん」だった。安斎肇や俳優の浅野忠信は赤塚とどういう関係があったのだろうか。ビデオ作品「バカ田大学lecture」(宇川直宏)は東大名誉教授へのインタビューで、赤塚マンガの左右非対称の魅力へのコメントがエンドレスで放映されていた。
 

2階には、まず大きなスクリーンとAV機器が並ぶ居間がある。VHSディスクプレーヤー、レーザーディスク、ハンディカムプレーヤーなどは中井商店街にあるツツイデンキの筒井さんによるもの。「最新モデルが出るや否や注文するより先に届いていたから素晴らしい」との説明があった。帰りに商店街で筒井電気を探した。店主は代替わりしたそうで、外からは普通の電気屋さんにみえたが健在で営業中だった。
AVコーナーの左に全裸で「シェー」をする赤塚氏の写真が掲示されていた。古いお知り合いがちょうど来られていて、訪問客はこの場所で「シェー」をするのが定番になっていた、と説明してくださった。
左手奥がキッチン。キッチンの戸棚にも赤塚マンガのキャラクターが描かれ、壁や天井に赤塚氏のスナップ写真が山のように貼られていた。これも当時のままかとお聞きすると、もちろんそんなことはなくこのイベント用にスタッフ総がかりでディスプレイしたそうだ。しかしどうしてこんなに大量の赤塚さんのスナップ写真があるのかと聞くと、亡き奥さまが撮りためていたそうだ。
2002年吉日「今日から赤塚不二夫のことを社長先生と名前を呼ぶように命ず 平成14年吉日 赤塚不二夫」という手書きの掲示があった。このころすでに社長名義は真知子夫人になっていた。「マチ子 年賀状用の写真撮るぞ!」とのメモがある夫妻の写真も貼られていた。

キッチンの手前に寝室があり表が墓石、裏が位牌のRiwko Akatsuka「ないのがあるのだ」というネオン管がきらめき回転する立体作品が展示されていた。位牌には「不二院釈漫雄」との戒名が記されていた。りえ子さんはロンドン大学ファインアート科を2001年に卒業しその後5年イギリスで活躍したアーティストなのだ。そのりえ子さん本人が直接いろいろ説明してくださった。
13年も前だが、わたしは2009年12月「トキワ荘のヒーローたち」展の特別イベントで手塚るみ子さんと赤塚りえ子さんのトークセッションを聞いたことがある。そのとき「セーラー服姿の父やどじょうすくいを踊る父を日常的にみていて、どこの家のお父さんもこういうことをやっているのだろう思っていた」という話が印象に残っている、とお話しした。たしかにこの部屋をみると、そう感じるのが自然であると理解できた。

左に「数々の名作をうんだフジオプロの現場」のイラストの一部が見える
3階に上がり、まず大きな部屋に入ると「バカボンのパパ」と「レレレのおじさん」「ウナギイヌ」の大きな人形が目についた。周囲の戸棚には、赤塚マンガのキャラクターを使ったさまざまな商品、たとえば人形、カルタ、お面、時計などが数多く陳列されている。
アシスタントの方々の思い出の写真やメモもあった。写真の1点には「山内ジョージ古谷三敏、赤塚不二夫、高井研一郎横山孝雄北見けんいち長谷邦夫」と錚錚たるメンバーの集合写真があった。写真の下に「ボクがフジオ・プロに入ったのは昭和39年、(略)先生、高井さん、古谷さん 楽しい思い出いっぱいの青春時代でした」と北見氏の色紙があった。トキワ荘に限らずあちこちにこういう場所が存在したようだ。
総勢16人のアシスタントと原稿待ちの編集者がいる大型イラスト「数々の名作をうんだフジオプロの現場」が展示されていた。中央では原稿待ちなのか、編集者たちが雀卓を囲んでいる。画面の端には、電気掃除機をかける人、ラーメンを食べる人、日本酒をラッパ飲みしている人もいる。赤塚は楽しそうに銀玉鉄砲を撃っている。当時はさぞにぎやかだったのだろう。
奥の部屋と狭い部屋には、作品の直筆原画とでき上った「マガジン」「サンデー」など雑誌の展示があった。

赤の上下服が展示されていた。「漫画家生活40周年と還暦を祝う会」(1995)での「チャップリンのコスプレ、ちょび髭、山高帽にステッキ、ダブダブズボンでステップを踏んで見せた」と説明があった(りえ子著書238pに写真がある)。このときのものかどうかわからないが、別室に大伸ばししたモノクロのポートレートが掛けられていた。みると撮影クレジットは篠山紀信だった。
廊下の端に4階に上がる急な階段があった。屋上に上がる階段だったそうだ。
「広々とした屋上では、夏になると子ども用プールを置いて水遊びをしていました。友人の石ノ森正太郎先生の自宅に瞑想部屋があることに触発されて、1990年代に瞑想部屋を増築」。しかしただ1度、わずか30分しか使われなかった、との説明版があった。
室内には「めいそう」というタイトルのミラーボールを使ったKAZの作品があった。しばらく中で静かに「瞑想」を試みた。あとで聞くと定員1名だとかで、悪いことをした。
なお展示に関しては、このサイトで多数の写真とともに紹介されているので、関心のある方はご覧いただきたい。また赤塚の作品については「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!」が詳しい。

さて、帰宅してからウィキペディアで赤塚のプロフィールをみた。わたしは赤塚のマンガは好きだったが、作者である赤塚本人にはあまり関心がなかった。しかし映画「トキワ荘の青春(1996 市川準 カルチュア・パブリッシャーズ 赤塚役は大森嘉之)をみたり青梅の「赤塚不二夫会館(コロナ禍の2020年閉館)を見に行ったことはあったので、満州生まれ、戦後新潟に引き揚げ、中卒で東京の下町工場で働いた後トキワ荘に入ったこと。26歳で結婚し紫雲荘で妻がアシスタントをしていたこと、人気作家になったあと、酒場に繰り出してはバカ騒ぎをしたこと、タモリなど多くの芸能人の知り合いがいたこと、などは知っていた。
しかし先妻と離婚したあと後妻がいたこと、経理担当者に2億円ともいわれる横領事件を起こされたこと、晩年の病気など知らないことが多く、波乱万丈の人生だったことを知った。
そこで一人っ子の赤塚りえ子の「バカボンのパパよりバカなパパ (幻冬舎文庫  2015) を読んだ。赤塚は73年、りえ子が8歳のとき結婚12年で離婚し、りえ子の籍は赤塚、親権は妻・登茂子が取り、登茂子とりえ子は中野・弥生町の自宅に住んだ。
8歳で別れた父とりえ子が再会したのは5年半後中学生のとき、父方の祖父の見舞いの病室の前だった(p152)。79年8月から親子デートが始まった。初デートは椿山荘での食事だった。
しばらくして2人とも(赤塚は鈴木真知子、登茂子は江守清人と)事実婚生活に入った。
つまり中落合のこのビルに赤塚の自宅ができたとき、りえ子の再会はまだで、母と弥生町の自宅で暮らしていた。なお79年の親子初デートのとき、真知子も同席していた。

4階建てのフジオプロ旧社屋 庇の上でバカボンのパパが逆立ちしている

81年の「漫画家生活25周年」のパーティには招待されたとあり、これは16歳のときだ。そのころには赤塚は鈴木真知子とつきあい始めていて、パパの家に行くと真知子さんが歓迎してくれるので、しょっちゅう遊びにいくようになったとある。ということは「ここが居間で、ここがキッチン、向こうが寝室」と紹介してくれたが、わたしの家というよりパパの家だったようだ。
赤塚は86年、51歳のとき正式に再婚した。赤塚はアルコール依存症気味になっていたので「お付き合いというよりも、お世話という感じだったのかもしれない」(p180)と書かれている。元妻の登茂子が婚姻届けの証人欄に署名し、登茂子とりえ子も式に同席し、その後も2家族は仲良く暮らした。「パパはママのことを「ママ」と呼んで、真知子さんのことは「マチ子」。ふたりを人に紹介するときは、ママを「もとにょう」、真知子さんを「いまにょう」(今の女房)と言っていた」とある(p268)
しかし86年にすでにアルコール依存症になり入退院を繰り返したこと、97年には食道がん、2002年には脳内出血、手術は成功し、意識はあってもコミュニケーションが取れないようになった
2002年赤塚が脳内出血を起こしたとき、りえ子はイギリス在住中だった。フジオプロは真知子が経営するが、その真知子が06年6月クモ膜下出血で倒れ、7月に永眠する(享年56)。03年末に書類の上ではりえ子はフジオプロ役員に登記されていたが、いきなりりえ子が、社長に就任。さらに悪いことが続き、08年7月30日登茂子が末期がんで死去(享年68)。そして不二夫もその3日後永眠した(享年72)。真知子が亡くなったのと同じ病院の同じベッドで、6年半コミュニケーションはとれないままだった。
その翌日3日が登茂子の通夜、4日が告別式、6日が不二夫の通夜、7日が告別式ということになった。著者のりえ子にとっては大変なことだったことが文中からも読み取れる。こうして赤塚不二夫は怒涛の生涯を終えた
「バカは真面目に」「もっと真面目にふざけなさいよ」「リッパなバカになるのは大変なんだ」がモットーだった。

できることなら、新宿区なりが補助して居間の展示の一部でも保存してほしいと思った展示内容だった。豊島区杉並区はマンガに力をいれ、スペースもつくっているのだから・・・。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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