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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

童画家 村山知義

2008年12月09日 | 村山知義
上野の国際子ども図書館で展示会「童画の世界」をみた。村山知義の作品がいくつか展示されていた。

村山は9歳のとき、父の転地療養先の沼津で伝道師・野辺地天馬に水彩画の指導を受ける(1910年)。13歳のとき図画教師から油絵の具を譲り受け、一高時代の19歳のとき太平洋画会で木炭デッサンを学ぶ一方、「子供之友」(婦人之友社)に挿絵を描き始める(1920年)。1922年には「ロービン・フッド」「リップ・ヴァン・ウィンクル」の挿絵、ドイツから帰国した1923年には「子供之友」10月号の「東京ノ地震ト火事」の表紙と挿絵を書く。(以上「村山知義のグラフィックの仕事」の年表より 本の泉社 2001年)
1927年26歳のときに岡本帰一武井武雄初山滋、清水良雄ら7人で日本童画家協会を結成した。設立記念写真が展示されていた。隣が12歳年上で最年長、和服姿の川上四郎のせいもあるが、丸坊主の村山は1人だけ中学生が混じっているようにみえる。
村山の作品は1924年の「ねたがりとくひしんぼうとめんどくさがり」、1926年の「せいの順」、1931年の「三ビキノオネコサン」など6点が展示されていた。
「ねたがりとくひしんぼうとめんどくさがり」は「ねよう、ねよう、とねむたがりがいった、おなべをかけよう、たべてからねようとくひたがりがいった、あ、あ、あ、めんどくさい、とめんどくさがりがいった」というセリフに絵が付いたものだ。
せいの順」は男の子1人と女の子4人がせいの順に並んだ後姿とそれをながめる赤い三角帽子をかぶった子どもの絵である。手にもっているのが犬、本、おもしゃの機関車、マリオネット、飛行機とそれぞれ違う。「三匹のこぐまとひよっこさん」(1926)は24年に結婚した籌子が文を書いている。赤、青、黄の色違いのズボンをはいたクマが活躍する話で人気があったようだ。
(なお、展示期間後期は「コイヌ」(1924)、「きしや」(1932)、「犬とくもと、かへる」(1926)が差し替えで展示されている)
戦後も「ガリヴァー旅行記」(岩波少年文庫1951年)、「しんせつなともだち」(こどものとも1965年)、「とこやのだいこんさん」(キンダーブック1967年)、「いっすんぼうし」(フレーベルの絵本1976年)など多く作品を残している。村山は建築家、画家、戯曲家、作家、演出者など多くの顔をもつが19歳から76歳まで絵本の絵を描き続けたので、一番長く続いた職業という意味では、童画家が本業だったともいえる。

「童画の世界」は次のような構成になっている。
1部は絵雑誌の歩みで、明治から昭和10年代までの60年を草創期、黄金期、衰退期の3期に分け「少年園」「幼年画報」「子供之友」「コドモノクニ」「コドモアサヒ」「キンダーブック」が展示されていた。1800年代はモノクロ、1900年からカラーになる。昔は雑誌ごとのロゴタイプ(題字)はなく、画家がそれぞれ表紙の絵に手書きで書いていたようだ。2部は童画家たちの世界で、村山以外では、竹久夢二、岡本帰一ら19人の絵が展示され、特別コーナーには「赤い鳥」などの童話・童謡、「エガホ」や「キンダーブック」など絵雑誌の付録が展示されていた。

黄金期の1930年代の「子供之友」では甲子上太郎が好評だったという。早寝、早起きなどの生活習慣を甲子上太郎(よい子)、乙子中太郎(普通の子)、丙子下太郎(悪い子)、にわけて「お点表」に付けるものだったようだ。半年続けると七宝賞、1.5年で銀賞、3年で金賞がもらえる。なぜこんなものに人気が集まったのかわからないが、全国に甲子上太郎会まで結成されたとあった。1939年には幼児生活団が創設された。ただ6-8歳とあるので、いまのように学齢前対象ではなかったのかもしれない。わたくしが子どものころ、通信教育で手洗い、ぶくぶくうがいなど、同じような励み表があった。
1935年12月の表紙「暮の街」はクリスマスセール、パンの木村屋、本の教文館、ビクター、三越、地下鉄など銀座4丁目がバックに描かれた姉弟だった(絵・安井小弥太)。1937年には屋外の丸テーブルでアイスクリームを食べる少女の絵柄があった。戦時国家体制を邁進する時代だったはずだが、1930年代は生活文化面では意外にもいい時代だったようにみえる。

1940年代の「コドモノクニ」で、大沢昌助の童画をみつけた。大沢というと抽象画の印象が強いが、1941年11月の表紙はバックに汽車と鉄橋がある河原に立つ子どもの絵で1942年の「ヰモンブクロ」は左に母、右に男の子2人、女の子3人の絵だった。抽象画の人だと思っていたので意外だった。
2部は童画家たちの世界で、日本のシュルレアリスト古賀春江の「四月の散歩」が展示されていた。1932年4月の「コドモノクニ」に掲載された絵で、白馬に乗った人が暗い夜道を家路をたどるものでピンクの花や白い蝶が飛ぶ、幻想的な絵柄だった。死の1年前の作品である。
小さな展示会だが、資料・解説ともたいへん充実していた。

☆国際子ども図書館の建物は、1906年(明治39年)に帝国図書館として建てられ2000年に国際子ども図書館として再生した。館内なのに旧館の窓やタイル壁が見えるようになっているところもある。階段も昔の三信ビルのように風格がある。旧館の設計はコンドルの弟子、久留正道、真水英夫である。国際子ども図書館への転用にあたり設計したのは安藤忠雄建築研究所と日建設計である。サンルームのようなガラスのカーテンウォールとフローリングの広い床が印象的である。
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