多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

村山知義のベルリン 1922年

2007年06月11日 | 村山知義
わたくしは20代のころ東京国立近代美術館で村山の「コンストルクチオン」(1925年)をみたことがあり、またMAVOのメンバーということは知っていた。そのためてっきりこの人は画家だと思い込んでいた。
ところが「演劇的自叙伝」(1-3巻は東邦出版社、4巻は東京芸術座 1970-1977刊)を2003年(4巻のみ2006年)に読み、村山は東大哲学科中退で、高校生のころから『子供之友』に童画を描き、その後抽象画や装丁といった美術部門、戯曲執筆・「朝から夜中まで」の舞台装置制作、左翼劇場、新協劇団、東京芸術座などの演出・戯曲など演劇関係、左翼文化活動、「忍びのもの」など小説まで書いたことを知った。波乱万丈の人生と幅広い交友関係、活動範囲が幅広く、まるで日本のダ・ビンチだとまで思ったほどだった。

村山が63歳のときに描いた童画
(「しんせつなともだち」 福音館書店 1965年)
「演劇的自叙伝」を読んだのがだいぶ前のせいもあり、留学した事実は覚えていたものの留学中どんなことをしていたかはあまり記憶がなかった。『言語都市・ベルリン 1861~1945』(和田博文ほか 藤原書店 2006年10月)に留学時代のことが書いてあることを知り、読んでみた。
『言語都市・ベルリン』のパート2「日本人のベルリン体験」には、1884年にベルリンに軍医として着任した森鴎外(1862-1922)から1941年、第二次大戦下ドイツの防空体制の視察に行った田辺平学まで25人の日本人が取り上げられている。
村山は「ワイマール共和国の誕生」という項に、黒田礼二、土方与志らとともに紹介されている。
村山がベルリンに到着したのは戦間期の1922年、一高時代の友人、和達知男、森(羽仁)五郎が先に留学していたのでドイツに渡った。
この時代のベルリンは、1919年8月成立のワイマール共和国のもと、ゲオルグ・カイザー「朝から夜中まで」やエルンスト・トラー「変転」の上演、バウハウス発足、映画「ドクトル・マブゼ」「ノスフェラトゥ」上映など、文化の花が開いた時期だった。しかし1922年以降は戦後賠償による猛烈なインフレが吹き荒れた時代でもある。
村山はアルキペンコ、カンディンスキー、ゲオルグ・グロス、シャガール、パウル・クレー、ピカソの作品に魅せられ、油絵を描き始め、ドイツ滞在中の1年足らずの間に、自分で150点ほどの作品をつくったという。
「演劇的自叙伝」に掲載されている肖像画「アンゲルマイヤー夫人像」のアンゲルマイヤー夫人は、結核でありながら生活のため活動写真館でピアノを弾いていた。村山は帰国してから小説「何が道徳的か――一つの美しい思い出」(1926年)に
「『私はもう死ぬんですよ!そんな事はなんでもない。もとからきまっていたことです。私はただ死ぬ間際にたった一遍人並のことがして見たかったのです。他の人を喜ばせたかったのです』という嘆きを聞き、村山らしい人物が彼女のためにチョコレートを買いに走りに出て行く」と書いた。
絵画のほか村山はイムペコーフェンのダンスにも心を揺さぶられ自分も踊り手になろうと決意した(帰国後の1923年、自由学園で女装?で踊る村山の写真が本書に掲載されている)。演劇ではエルンスト・トラーの戯曲に感激したとある。
村山は1922年12月「もう12月になるからクリスマスを過ごしてからにしては」という下宿の夫人の勧めも断り急ぎ帰国した。
たった1年の滞在だが、絵画、演劇、デザイン、舞踊など得たものは大きかったようだ。
本書の年表によれば同時期に、田辺元、三木清、阿部次郎、信時潔、箕作秋吉、南原繁、森戸辰男、大塚金之助、黒田礼二がベルリンに滞在した。


村山以外に本書掲載のなかで興味をもった人物を4人挙げる。
千田是也(1904-1994 ベルリン在住1927.5-1931.11)
千田の長兄は舞踊家の伊藤道郎、三兄は伊藤祐司、四兄は舞台装置家の伊藤熹朔。千田は築地小劇場に創立期(1924年)から在籍し、海外での勉強を目指し、モスクワ経由で1927年ベルリンに入った。
1929年8月ドイツ共産党に入党し、絵が得意だったので市議選の宣伝パンフやビラを作る手伝いをするため事務局に通った。日本人のなかでもひときわ生き生きと活動した。日本工芸の巴工房を開き、陶器店の包装紙のデザインを手がけた。のちにスターリンに粛清されたベルリン反帝グループ・国崎定洞らの社会科学研究会に参加。帰国後1944年2月、青山杉作、小沢栄太郎、東山千栄子らと俳優座を結成した。
秦 豊吉(1892-1956 ベルリン在住1920-1926)
三菱商事ベルリン出張所(のちに支店)に勤務。仕事の合間に「西部戦線異状なし」を翻訳(1929年)、丸木砂土のペンネームで「夜の話昼の話」など軽い読み物を執筆。1933年東京宝塚劇場に入社しショーのプロデュースを担当、36年日劇ダンシングチームをつくった。1950年には帝劇の社長に就任した。
新明正道(1898-1984 ベルリン在住1929年4月-1930年末)
東北大学助教授として渡独。ファシズムの台頭を目の当たりにし「ドイツ共産党や社民党はナチスの存在を軽視している」と批判した。著書「群衆社会学」では、公衆に対し群衆を規定し、欲望の抑圧として無意識を説明したフロイトの精神分析学を援用した。
一方、新明はピスカートルの演劇に関心を抱いた。とくに、プロレタリアート、中産階級、資本家が3層の舞台で登場し、舞台の移動をベルトコンベアでコントロールし、統計表やスローガンを映写したりシュプレヒコールも使う「伯林の商人」の舞台装置や演出に、強烈な印象を受けた。
●宮内(瀧崎)鎮代子(1910- ベルリン在住1938.3-1939.9)
東京音楽学校ピアノ科を1931年卒業し、母校の教壇に立った。ヴィルヘルム・ケンプかエドヴィン・フィッシャーに師事しようとベルリンに留学。1938年7月ケンプの教えを受けたが、ケンプの提案によりベルリン高等音楽院でシュミットに学ぶ。渡独中フルトヴェングラーやフィッシャーの演奏を聴く。ウィーンフィルの演奏会ではヒットラーとゲッペルスが談笑しているのを目撃している。しかし1939年9月第二次世界大戦の勃発で突然の帰国を余儀なくされた。帰国後、再び宮内は東京音楽学校でピアノを教えた。
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