千代田図書館で「検閲官 ――戦前の出版検閲を担った人々の仕事と横顔」という展示をみた。検閲というと、戦前の書物の伏字や甚だしくは発禁処分など、「表現の自由」を抑圧する、現行憲法に真っ向から対立するシステムだ。検閲だけでも珍しいのに、この展示はそれを実行した人間、検閲官がテーマになっていた。
日本の出版物取締は、明治政府成立直後の1869(明治2)年の出版条例、新聞紙印行条例に始まり、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)が公布され、内務省等への出版届提出と刊行物の納本が義務付けられ、検閲が法制化された。担当は内務省発足直後の1875(明治8)年以降内務省の管轄で、1893年以降警保局図書課が担当した。内務省警保局というと、治安維持法を根拠に保管課が厳しい取締をしたことで悪名高い全国の警察署の特高警察(特別高等課)の統括部署である。
検閲システムは下記のようだった。役所に発行3日前までに届けられた2冊の納本分のうち1冊が検閲原本となった。検閲は1人でなく2人で行うものもあり、課長が決済した。検閲は、安寧秩序紊乱と風俗壊乱がポイントとなる。処分は、もっとも厳しいのは「発行禁止処分」、すなわち「発禁」で当該号のみならず以降の発行自体が禁止という処分である。局長が決済した。「発売頒布禁止処分」は販売や無料配布が禁止され、警察が出版物を押収した。その他、該当する箇所を部分的に削除する削除処分、比較的軽い書籍には「今回は許可する」が、増刷するときに指摘した箇所を訂正・削除しなければ処分する次版改訂・次版削除という処分があった。その下に最も軽い、同じようなことをすれば処分するという警告の「注意処分」があった。もちろん「不問」でパスするものも多かった。
さて、検閲した人間についてである。図書課は、検閲係、著作権登録や出版統計も担当する庶務係、出版届受付だけでなく納本日報の作成も行う受付係、保管係、調査係の5つの係があった。調査係は内部向けに毎日刊行の「出版警察報」も担当した。もちろん一番大きいのは検閲係で、安寧を検閲する第一部、風俗を検閲する第二部、外国語出版物担当に分かれており、一般出版物の検閲、新聞記事差止、禁止訓令の起案、東京市内発行の新聞等の検閲をするための宿直事務などを行った。
図書課は総員56人(1933年)、課長と事務官の3人が高等文官試験合格のエリートの高等官、25人が属官といういわゆる役人で、ここまでが正規雇用、そして雇(やとい)という事務補助が21人いた。それ以外に語学等の専門家として嘱託が7人いた。検閲係でいうと、属官15人、嘱託2人、雇3人の合計20人だった。
エリートの高等官は東京帝大法学部出身が多く、属官は警察関係の部署や雇から昇進したもの、東大・早大出身の新卒者もいた。以下は非正規雇用だが嘱託は語学等の専門家なので東京帝大、東京外語大などの出身者が多い。雇は官公庁の臨時雇や給仕出身者や大学専門部の新卒が多かった。給料は属官の半分程度。
検閲の実例。左はコメント(ただし安寧不問でパス)、右は本文への青の傍線書込み
さて、具体的なプロフィールである。課長の土屋正三(1893-1989)は、兵庫県警警視などを経て1927年に34歳で着任した。図書課のあとは、警務課長、山梨県・群馬県知事などを勤めた。1940年に47歳で退官し、日本輸出農産物の副社長に就任、戦後は国会図書館の専門調査員となった。
嘱託の佐伯慎一(1901-1992)は早大仏文科出身、1926年から検閲係に勤務。28年調査係に配転となり、このころ属官に昇格した。早稲田で西条八十に学び1931年には詩集「北の貌」を発刊したり、高村光太郎や草野心平とも交流があり、東京宮沢賢治の会の発足にも携わった。
直木三十五と松本学・警保局長が中心になって設立した文藝懇話会で佐伯は1934年から事務を担当した。一方情報局および検閲課では児童文化を担当、42年からは用紙統制にもかかわった。戦後は岩手県で教育行政に携わったほか、詩作も続けた。
安田新井(やすだにいい 1902-?)は日大専門部法律科出身で、白木屋呉服店を経て1928年に雇として入庁、35年に属官に昇進、36年に新聞検閲係風俗検閲主査に就いた。1938年満州国民政部に転職した。安田の場合、貴重なのは個人の日記が35年前後の3年分残っていたことだ。下記の日記は「調査レポート12号」(千代田図書館2016年3月)より。
属官に昇進直前の35年4月には美濃部達吉の「天皇機関説」にかかわっていた。(下記の一木は枢密院議長・一木喜徳郎のこと。東京帝大教授時代に天皇機関説を提唱し美濃部を育てた)。
4月17日(水)美濃部博士著書に関する取締要綱の写しのため、6時半までかゝって書き上げ、8時半に帰宅なす。
4月22日(月)美濃部問題が片付いたと思ったら、今日から又一木問題で鉄筆の御用で庶務係へ召集された。8時までなして10時帰宅。
翌36年2月風俗検閲主査に就いた直後の日記
2月19日(水)風俗の検閲も漸く馴れて来たし、同時に又興味も湧いて、相当に面白味があると云ふもの。人間は第一責任ある仕事を与へられないと、何んとなく機械そのものだが、一面機械な事である事に依って、気は楽でもある。
これなどは、現代のサラリーマンとも似たような体験談である。
さて、驚いたのは内山鋳之吉(1901-?)だ。なんと村山知義らの心座のパンフレットを展示パネルにみつけたのだ。心座は1925年に村山知義、池谷信三郎、河原崎長十郎、市川団二郎(のちの寿美蔵)らが結成した劇団だ。
内山は旧制五高から東京帝大英文科卒。1926年嘱託として入省し検閲係の仕事を始めたが、28年にいったん調査係に異動、数年後にふたたび検閲係に戻り1932年には主任に昇進した。その後1939年企画院へ異動、40年から新聞雑誌用紙統制委員会で出版統制に関わり、戦後は神奈川県の私立学校の理事長となり、退任後も1967年まで勤務した。
ここから先は、村山知義を中心に記す。(資料は、主として「村山知義 グラフィックの仕事」(本の泉社)の巻末年表および「演劇的自叙伝3巻」(東邦出版社))
村山は1年間滞在したベルリンから1923年帰国しマヴォなど美術分野で活躍したが、24年12月「朝から夜まで」の舞台装置制作ではじめて演劇との縁ができる。
25年9月心座を結成し、第1回公演(1925年9月)は「ユアナ」(ゲオルグ・カイゼル作、村山演出)ほか、ベートーヴェンのピアノトリオからメヌエットの村山による舞踊、池谷作・演出の「三月三十二日」などを行った。立川春洞作「洞」(ほこら)の演出が内山鋳之吉とあり、河原崎長十郎、市川団二郎が出演している。ただし「「洞」がどんな芝居だったか思い出せない。内山という人もそうだ」としか書いていない。(自叙伝2 p301)しかし、会場でみかけた1927年5月の心座パンフレット(所蔵する彦根市立図書館舟橋聖一記念文庫の許可が下りず、撮影はできない)には当時の名簿があり、文藝部の筆頭が村山で以下舟橋聖一、今日出海ら5人、演伎部は男優が河原崎長十郎、市川団二郎、生方賢一郎ら8人、女優は伊藤智子、八木ユリヤ、花柳はるみ(客演)ら5人の名がある。さて、内山は経営部に上森健一郎と並び2人、また主事として内山とある。プロデューサーやマネジャーのような仕事をしていたのだろうか。なお村山は装置部にも属していた。
当時の事務所は芝区西久保桜川町1(現在の虎ノ門1丁目)とある。
演劇の検閲には新聞や書籍と異なり根拠法がないので、活動写真フイルム検閲規則(1925)(注 映画『フイルム』検閲規則かもしれない)に準じた(以下、自叙伝 3巻による)。内務省ではなく、警視庁の認可を受けた脚本によらないと興行することができない。脚本(又ハフィルム)に関し、下記のようなものは認可しないという規則があった。(p282)
四 濫(みだり)ニ時事ヲ諷シ又ハ政談ニ紛ラワシイ虞ガアル
七 前各号ノ他公安ヲ害シ又ハ風俗ヲ紊(みだ)ス虞ガアル
脚本の検閲はだんだんひどくなり、「太平洋戦争勃発が近ずくころには、警視庁保安課、内務省警保局、文部省、陸軍省、海軍省、情報局の6つにそれぞれ脚本を初日20日前に提出し、それらの各官庁からそれぞれ勝手な削除をされたものが初日直前に渡され、それらすべての削除をプラスした部分を除いた残りだけが結局許可されるということになったのである」(p280)
村山は朝日講堂で行われた「検閲制度」に関する講演会で、山本有三、大宅壮一らとともに講演したとき、台本を示し「青や赤の線の所は、みんないってはいけない所だ。しかもこの状態はだんだんひどくなって行く」と述べた(p289)。
脚本がパスしても「いつ何時、臨検の警官から更に新たな訂正を命じられるかも知れなかった」(p282)。
またシナリオだけでなく、舞台稽古を見にきた保安課の警官が「夕方の空の色が赤過ぎるからいけない」と演出に口を出したり、メーキャップに対しても、警官役の男の顔が好男子でなく「警官を愚弄していると取られる虞れがある」というので「ピンとはね上がった八字髭を付けた」という冗談のような話まで書いている(p283)
冗談のようなといえば「われわれ劇団員が集まって稽古をしていると、それを無届集会だといって解散を命じ、検束する」(p288)ともあるが、安倍政権の「共謀罪」を考えると笑えない話だ。
さらに客にまで「上演中は劇場の入口に立って観客の身体検査をし、更にこの間の『全線』の時は、上演中、警官が客席で張番していて、好意的野次を飛ばした観客を片っ端から検束した」(p288)。逮捕覚悟の観劇だったわけだ。
「ひどい検閲制度」(p40)には新潟県葛塚で1927年に公演したときに「途中で臨検が立ち上がり『中止!』と怒鳴り終了することになってしまった」顛末が書かれている。この件は「村山知義のプロレタリア演劇論」(08年5月)で紹介したので参照いただきたい。
検閲による演劇人の苦心は枚挙にいとまがなかったようだ。
内山は、1929年ごろ警視庁に村山とともに行き、脚本の内容説明に行ったそうだ(展示パネルより)。
内山は英文科出身だったが、警視庁保安課のほうも「課長は警部で(略)帝大の哲学科の美学出身であった。好きで美学を専攻した者が警視庁にはいるわけはないから、いい教職の道が見付からなかったわけだろう。(略)そういう警部がいて、脚本を握っており、やがては演出についてまで口をさしはさみ出し、のち戦争時代になると、全演劇芸術家・技術家を登録したりしなかったりの全権を握ることになってしまったのだ」(p52)とある。村山は哲学科中退なので、近い関係だ。
検閲する側とされる側、人生劇場のなかでは、案外近いところで出くわすこともあった。
1936年の内務大臣宛て雑誌出版届
憲法21条に「検閲は、これをしてはならない」と定められているので、こんな検閲制度は現在はないと書きたいところだが、風俗のほうではしっかり残っていたことを「出版奈落の断末魔―エロ漫画の黄金時代」(塩山芳明 アストラ2009年)で読んだ。その他、文科省が行う教科書検定も同じだ。
検閲制度の現在へのなごりということで、戦後1948年以降の国会図書館への納本制度は戦前の納本義務の後継かと思い、HPなどもみてみたがよくわからなかった。占領期に行われたGHQへの納本は検閲のためなので、まさに同種である。
意外な話では、奥付は検閲制度のなごりなのである。戦前の出版法で、発行者の住所氏名、発行年月日、印刷者の住所氏名、印刷日を「文書図画の末尾に」記載することが義務づけられ、法律消滅後も習慣として残ったのだそうだ。
日本の出版物取締は、明治政府成立直後の1869(明治2)年の出版条例、新聞紙印行条例に始まり、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)が公布され、内務省等への出版届提出と刊行物の納本が義務付けられ、検閲が法制化された。担当は内務省発足直後の1875(明治8)年以降内務省の管轄で、1893年以降警保局図書課が担当した。内務省警保局というと、治安維持法を根拠に保管課が厳しい取締をしたことで悪名高い全国の警察署の特高警察(特別高等課)の統括部署である。
検閲システムは下記のようだった。役所に発行3日前までに届けられた2冊の納本分のうち1冊が検閲原本となった。検閲は1人でなく2人で行うものもあり、課長が決済した。検閲は、安寧秩序紊乱と風俗壊乱がポイントとなる。処分は、もっとも厳しいのは「発行禁止処分」、すなわち「発禁」で当該号のみならず以降の発行自体が禁止という処分である。局長が決済した。「発売頒布禁止処分」は販売や無料配布が禁止され、警察が出版物を押収した。その他、該当する箇所を部分的に削除する削除処分、比較的軽い書籍には「今回は許可する」が、増刷するときに指摘した箇所を訂正・削除しなければ処分する次版改訂・次版削除という処分があった。その下に最も軽い、同じようなことをすれば処分するという警告の「注意処分」があった。もちろん「不問」でパスするものも多かった。
さて、検閲した人間についてである。図書課は、検閲係、著作権登録や出版統計も担当する庶務係、出版届受付だけでなく納本日報の作成も行う受付係、保管係、調査係の5つの係があった。調査係は内部向けに毎日刊行の「出版警察報」も担当した。もちろん一番大きいのは検閲係で、安寧を検閲する第一部、風俗を検閲する第二部、外国語出版物担当に分かれており、一般出版物の検閲、新聞記事差止、禁止訓令の起案、東京市内発行の新聞等の検閲をするための宿直事務などを行った。
図書課は総員56人(1933年)、課長と事務官の3人が高等文官試験合格のエリートの高等官、25人が属官といういわゆる役人で、ここまでが正規雇用、そして雇(やとい)という事務補助が21人いた。それ以外に語学等の専門家として嘱託が7人いた。検閲係でいうと、属官15人、嘱託2人、雇3人の合計20人だった。
エリートの高等官は東京帝大法学部出身が多く、属官は警察関係の部署や雇から昇進したもの、東大・早大出身の新卒者もいた。以下は非正規雇用だが嘱託は語学等の専門家なので東京帝大、東京外語大などの出身者が多い。雇は官公庁の臨時雇や給仕出身者や大学専門部の新卒が多かった。給料は属官の半分程度。
検閲の実例。左はコメント(ただし安寧不問でパス)、右は本文への青の傍線書込み
さて、具体的なプロフィールである。課長の土屋正三(1893-1989)は、兵庫県警警視などを経て1927年に34歳で着任した。図書課のあとは、警務課長、山梨県・群馬県知事などを勤めた。1940年に47歳で退官し、日本輸出農産物の副社長に就任、戦後は国会図書館の専門調査員となった。
嘱託の佐伯慎一(1901-1992)は早大仏文科出身、1926年から検閲係に勤務。28年調査係に配転となり、このころ属官に昇格した。早稲田で西条八十に学び1931年には詩集「北の貌」を発刊したり、高村光太郎や草野心平とも交流があり、東京宮沢賢治の会の発足にも携わった。
直木三十五と松本学・警保局長が中心になって設立した文藝懇話会で佐伯は1934年から事務を担当した。一方情報局および検閲課では児童文化を担当、42年からは用紙統制にもかかわった。戦後は岩手県で教育行政に携わったほか、詩作も続けた。
安田新井(やすだにいい 1902-?)は日大専門部法律科出身で、白木屋呉服店を経て1928年に雇として入庁、35年に属官に昇進、36年に新聞検閲係風俗検閲主査に就いた。1938年満州国民政部に転職した。安田の場合、貴重なのは個人の日記が35年前後の3年分残っていたことだ。下記の日記は「調査レポート12号」(千代田図書館2016年3月)より。
属官に昇進直前の35年4月には美濃部達吉の「天皇機関説」にかかわっていた。(下記の一木は枢密院議長・一木喜徳郎のこと。東京帝大教授時代に天皇機関説を提唱し美濃部を育てた)。
4月17日(水)美濃部博士著書に関する取締要綱の写しのため、6時半までかゝって書き上げ、8時半に帰宅なす。
4月22日(月)美濃部問題が片付いたと思ったら、今日から又一木問題で鉄筆の御用で庶務係へ召集された。8時までなして10時帰宅。
翌36年2月風俗検閲主査に就いた直後の日記
2月19日(水)風俗の検閲も漸く馴れて来たし、同時に又興味も湧いて、相当に面白味があると云ふもの。人間は第一責任ある仕事を与へられないと、何んとなく機械そのものだが、一面機械な事である事に依って、気は楽でもある。
これなどは、現代のサラリーマンとも似たような体験談である。
さて、驚いたのは内山鋳之吉(1901-?)だ。なんと村山知義らの心座のパンフレットを展示パネルにみつけたのだ。心座は1925年に村山知義、池谷信三郎、河原崎長十郎、市川団二郎(のちの寿美蔵)らが結成した劇団だ。
内山は旧制五高から東京帝大英文科卒。1926年嘱託として入省し検閲係の仕事を始めたが、28年にいったん調査係に異動、数年後にふたたび検閲係に戻り1932年には主任に昇進した。その後1939年企画院へ異動、40年から新聞雑誌用紙統制委員会で出版統制に関わり、戦後は神奈川県の私立学校の理事長となり、退任後も1967年まで勤務した。
ここから先は、村山知義を中心に記す。(資料は、主として「村山知義 グラフィックの仕事」(本の泉社)の巻末年表および「演劇的自叙伝3巻」(東邦出版社))
村山は1年間滞在したベルリンから1923年帰国しマヴォなど美術分野で活躍したが、24年12月「朝から夜まで」の舞台装置制作ではじめて演劇との縁ができる。
25年9月心座を結成し、第1回公演(1925年9月)は「ユアナ」(ゲオルグ・カイゼル作、村山演出)ほか、ベートーヴェンのピアノトリオからメヌエットの村山による舞踊、池谷作・演出の「三月三十二日」などを行った。立川春洞作「洞」(ほこら)の演出が内山鋳之吉とあり、河原崎長十郎、市川団二郎が出演している。ただし「「洞」がどんな芝居だったか思い出せない。内山という人もそうだ」としか書いていない。(自叙伝2 p301)しかし、会場でみかけた1927年5月の心座パンフレット(所蔵する彦根市立図書館舟橋聖一記念文庫の許可が下りず、撮影はできない)には当時の名簿があり、文藝部の筆頭が村山で以下舟橋聖一、今日出海ら5人、演伎部は男優が河原崎長十郎、市川団二郎、生方賢一郎ら8人、女優は伊藤智子、八木ユリヤ、花柳はるみ(客演)ら5人の名がある。さて、内山は経営部に上森健一郎と並び2人、また主事として内山とある。プロデューサーやマネジャーのような仕事をしていたのだろうか。なお村山は装置部にも属していた。
当時の事務所は芝区西久保桜川町1(現在の虎ノ門1丁目)とある。
演劇の検閲には新聞や書籍と異なり根拠法がないので、活動写真フイルム検閲規則(1925)(注 映画『フイルム』検閲規則かもしれない)に準じた(以下、自叙伝 3巻による)。内務省ではなく、警視庁の認可を受けた脚本によらないと興行することができない。脚本(又ハフィルム)に関し、下記のようなものは認可しないという規則があった。(p282)
四 濫(みだり)ニ時事ヲ諷シ又ハ政談ニ紛ラワシイ虞ガアル
七 前各号ノ他公安ヲ害シ又ハ風俗ヲ紊(みだ)ス虞ガアル
脚本の検閲はだんだんひどくなり、「太平洋戦争勃発が近ずくころには、警視庁保安課、内務省警保局、文部省、陸軍省、海軍省、情報局の6つにそれぞれ脚本を初日20日前に提出し、それらの各官庁からそれぞれ勝手な削除をされたものが初日直前に渡され、それらすべての削除をプラスした部分を除いた残りだけが結局許可されるということになったのである」(p280)
村山は朝日講堂で行われた「検閲制度」に関する講演会で、山本有三、大宅壮一らとともに講演したとき、台本を示し「青や赤の線の所は、みんないってはいけない所だ。しかもこの状態はだんだんひどくなって行く」と述べた(p289)。
脚本がパスしても「いつ何時、臨検の警官から更に新たな訂正を命じられるかも知れなかった」(p282)。
またシナリオだけでなく、舞台稽古を見にきた保安課の警官が「夕方の空の色が赤過ぎるからいけない」と演出に口を出したり、メーキャップに対しても、警官役の男の顔が好男子でなく「警官を愚弄していると取られる虞れがある」というので「ピンとはね上がった八字髭を付けた」という冗談のような話まで書いている(p283)
冗談のようなといえば「われわれ劇団員が集まって稽古をしていると、それを無届集会だといって解散を命じ、検束する」(p288)ともあるが、安倍政権の「共謀罪」を考えると笑えない話だ。
さらに客にまで「上演中は劇場の入口に立って観客の身体検査をし、更にこの間の『全線』の時は、上演中、警官が客席で張番していて、好意的野次を飛ばした観客を片っ端から検束した」(p288)。逮捕覚悟の観劇だったわけだ。
「ひどい検閲制度」(p40)には新潟県葛塚で1927年に公演したときに「途中で臨検が立ち上がり『中止!』と怒鳴り終了することになってしまった」顛末が書かれている。この件は「村山知義のプロレタリア演劇論」(08年5月)で紹介したので参照いただきたい。
検閲による演劇人の苦心は枚挙にいとまがなかったようだ。
内山は、1929年ごろ警視庁に村山とともに行き、脚本の内容説明に行ったそうだ(展示パネルより)。
内山は英文科出身だったが、警視庁保安課のほうも「課長は警部で(略)帝大の哲学科の美学出身であった。好きで美学を専攻した者が警視庁にはいるわけはないから、いい教職の道が見付からなかったわけだろう。(略)そういう警部がいて、脚本を握っており、やがては演出についてまで口をさしはさみ出し、のち戦争時代になると、全演劇芸術家・技術家を登録したりしなかったりの全権を握ることになってしまったのだ」(p52)とある。村山は哲学科中退なので、近い関係だ。
検閲する側とされる側、人生劇場のなかでは、案外近いところで出くわすこともあった。
1936年の内務大臣宛て雑誌出版届
憲法21条に「検閲は、これをしてはならない」と定められているので、こんな検閲制度は現在はないと書きたいところだが、風俗のほうではしっかり残っていたことを「出版奈落の断末魔―エロ漫画の黄金時代」(塩山芳明 アストラ2009年)で読んだ。その他、文科省が行う教科書検定も同じだ。
検閲制度の現在へのなごりということで、戦後1948年以降の国会図書館への納本制度は戦前の納本義務の後継かと思い、HPなどもみてみたがよくわからなかった。占領期に行われたGHQへの納本は検閲のためなので、まさに同種である。
意外な話では、奥付は検閲制度のなごりなのである。戦前の出版法で、発行者の住所氏名、発行年月日、印刷者の住所氏名、印刷日を「文書図画の末尾に」記載することが義務づけられ、法律消滅後も習慣として残ったのだそうだ。