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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

4.29反「昭和の日」行動

2010年05月06日 | 集会報告
4月29日はかつての天皇誕生日、21年前からみどりの日、そして4年前に「昭和の日」という名の祝日になった。ゴールデンウィーク初日にピッタリののどかな天候だったが、恵比寿駅から200mほど北に歩くと、機動隊に一角が閉鎖された異様な空間が出現した。今年も反天連をはじめとする実行委員会方式の4.29反「昭和の日」行動が実行された(参加80人)。
今年は韓国併合100年、60年安保50年の節目の年なので、28日の「安保と沖縄」を考える集会(文京区民センター)との連続行動の一環として企画された。
この日のメインの講演は庵逧(あんざこ)由香さん(立命館大学 朝鮮金現代史)の「植民地支配と朝鮮動員体制」だった。

最近10年あまりで朝鮮近現代史の学者にとって、大きな変化があった。韓流やK-POPのブレイクである。かつて日本人の韓国・朝鮮への無関心が大きな問題だったが様変わりした。戦後60年たちやっと隣国と普通の大衆文化の交流ができるようになった。しかしそれで差別意識や偏見がなくなったかというと、答えは「否」だ。韓国のイメージアップの反面、偏見はすべて朝鮮民主主義人民共和国へ向かった。最たるものは在特会の朝鮮学校攻撃、そして高校無償化朝鮮学校除外問題だ。在特会は在日の人の日本での生活権、生存権すら否定しようとする。ここまで差別が膨れ上がった一因として、植民地支配の経験で培われた認識が土台になっている。
ただ今日は「日本人はあまりにも植民地支配のことを知らなさすぎる」というのとは違う視点の話をしたい。また具体的な例として総動員体制についてお話しする。
●植民地支配を見る視角
植民地の定義はなんだろう。「植民地である」とは、国権が奪われた状況のことである。近代国家では、人は国民国家に属さないと生存権を脅かされる。放り出されると難民となる。植民地の損害は、経済的収奪、軍隊や警察による日常的な暴力など、さまざまあるが、意外にいわれないのが政治的権利を奪われたことだ。韓国の歴史学者・姜万吉(カン・マンギル)氏は「朝鮮半島にとってもっとも大きな植民地被害は、朝鮮人が民主的な政治制度をつくるための政治的訓練を受けることができなかったこと」だという。
朝鮮と日本の長い歴史のなかで、双方の歴史イメージの落差が最も大きいのは植民地期である。日本のほうは、日本が植民地支配をしたとイメージする。一方朝鮮のほうは支配を受けたことより、自分たちがどういう国家をつくろうとしていたか、つまり民族解放運動をどう展開したかというイメージが強い。
なぜ違うかというと、1910―1945年の植民地期には、同じ時空間を共有する「近しい関係」にあったものの、それが支配と被支配という歪んだ関係のうえで成り立っていたからである。
その結果、日本人には2つの見方が生まれた。ひとつは、いくらかやりすぎはあったが基本的によいことをしてやったという認識である。もうひとつはいかに日本がひどいことを朝鮮にしてきたかという認識である。後者は、必要ではあるが、その視点からは朝鮮人はやられっぱなし、あるいは抵抗しか出てこない。これを2つの「善意の悪政」と呼ぶ。その見方では、朝鮮人という主体が見えなくなる。日本人が陥りがちな落とし穴である。天皇訪韓を主張しアジア女性基金を推進した和田春樹氏にもみられる。
日本の植民地支配が、どれほど朝鮮社会を取りこめたか考えると、じつはそれほど浸透しなかった。たとえば、日本語教育を強要したが、日常会話ができる朝鮮人は1940年で25%、44年でも山間部に日本人警官が行くときには通訳官の同行が必要とされ、45年でせいぜい50%に過ぎない。45年8月15日の解放数日後には地方ごとに建国準備委員会が発足し、3か月で南の5割以上の地域で人民委員会がつくられた。そして治安や配給という行政機能を担った。
●総動員体制と植民地支配政策
植民地被害というと、戦争責任の問題から日本への強制連行や、中国戦線に動員された慰安婦がクローズアップされる。しかしそれは被害の一部に過ぎない。もっと大きいのは、朝鮮半島のなかでの、農村から炭鉱・工場などへの労働力動員、米の供出、心の動員の3つである。朝鮮では異民族を自発的に戦争に協力させる必要があり、皇国臣民化政策を行った。「笑って弾に当たって、天皇のために死ねる人間をつくる」政策である。韓国では民族抹殺政策と捉えられている。そのための体制づくりが進められた。
韓国併合条約が合法(有効)か無効かという議論がある。この条約は国際条約なので、政治力により、今後も、有効か無効かは変えられる可能性がある。それより条約が結ばれるに至った過程が重要である。日清・日露の2つの戦争の結果、できた条約である。つまり植民地そのものが戦争から生まれたことが前提となる。  
日清戦争(1894-95)は、近代化のため朝鮮民衆が立ち上がった東学農民戦争を弾圧するために日本と清が朝鮮に入り、朝鮮の覇権をめぐり戦った戦争である。日本が勝利し清が退き、代わってロシアが干渉し日露戦争(1904-05)を開戦した。日露戦争が勃発したとき大韓帝国は中立宣言を行った。しかし日本はそれを無視してソウルに軍隊を駐屯させた。この軍事力を背景に締結したのが1904年の日韓議定書で、これを皮切りに5つの条約を段階的に結び、最終的に韓国併合条約に至った。
韓国併合ニ関スル詔書は「東洋ノ平和ヲ永遠ニ維持」するため「朕ノ命ヲ承ケテ」朝鮮総督を置き「陸海軍ヲ統率シ諸般ノ政務ヲ総轄セシム」というものだった。朝鮮総督は天皇に直属(直隷)し内閣も手を出せなかった。また司法・立法・行政の三権に軍隊まで統率し強大な権力を握った。2個師団が常駐したことを忘れてはならない。
総力戦という概念ができたのは第一次大戦のときである。それまでは軍事力同士で勝敗を決められた。しかし空爆で数万人もの大量殺戮が可能になり、一国の経済力、政治力、社会力といったあらゆるものを使わないと勝てなくなった。総力戦の日本的な表現が総動員体制である。
小磯国昭(のちに朝鮮総督、首相)は1917年「帝国国防資源」を執筆した。日本には資源がないので大陸の資源に注目し、海上輸送より安全な陸上輸送を行うため朝鮮半島を重視した。1918年4月に軍需工業動員法が成立し、半年後の10月朝鮮にも適用した。日本と外地は法域が違うので異例の早さだった。平時から調査・計画を進め有事には総動員体制に再編するものだった。実際37年7月に日中戦争が勃発するとまたたくまに総動員体制が出来上がった。
植民地朝鮮の役割は、大陸の資源の陸上輸送、食糧(とくに米)の供給、労働力の動員の3つである。労働力動員は、トラックで連れていう奴隷狩りのようなイメージではなく、もっと計画的体系的なものだった。上意下達の軍隊組織をモデルに、最末端では7-20戸単位の「愛国班」という組織をつくらせた。内地の隣組のような組織である。食糧配給、強制貯蓄、供出の集荷など、朝鮮全域400万戸の世帯はすべてこの組織に組み込まれた。逆に愛国班に入らないとモノも情報も入ってこない。そして皇国臣民化政策(韓国からみると民族抹殺政策)として創氏改名、神社参拝などを強要した。また朝鮮語を禁止し、日本語がわからない人にも「皇国臣民の誓詞」を覚えさせた。駅で切符を買うときにも誓詞を言わせ、言えなければ「不逞鮮人」の可能性があるとした。このように植民地支配の体制づくりが進められた。
ただし、8月15日に解放されるやいなや朝鮮人が国民国家建設に邁進したことに注意すべきである。韓国でも植民地支配の残滓をどうやって清算するかが問題になっている。日本では植民地支配の事実だけを明らかにすれば支配を見たことになるのか、この限界を意識すべきである。 
質疑応答のあと、28日の集会の新崎盛暉さん(一坪反戦地主会)と天野恵一さんの話の概要報告、さらに「韓国強制併合100年」共同行動日本実行委員会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、立川自衛隊監視テント村辺野古への基地建設を許さない実行委員会アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」2010安保連絡会からアピールがあった。

☆集会終了後、渋谷までのデモに移った。明治通りに出てしばらく北上すると右翼の街宣車が向かい側の車道に待ち構えており、大音響のスピーカーで喚き立てていた。「お前ら日本人か」「バカヤロー」と言っているようにも思えるが、何台もの街宣車で同時にやるのでハウリングや警官の警笛で、よく聞こえない。
こちらはいつものようにヒロヒトのパペットを手に、「昭和天皇の誕生日を祝わないぞ」「昭和天皇は戦争の最高責任者だ」「責任を取るまで許さないぞ」「政府は戦争被害者に謝罪しろ」「謝罪して補償を行え」「謝罪して天皇制を廃止しろ」「天皇制の戦争責任を明らかにするぞ」「昭和の日反対!」とシュプレヒコールの声をあげた。

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