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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

空にヘリが舞った4.29反「昭和の日」行動

2011年05月08日 | 集会報告
4月29日はかつての天皇誕生日、いまは昭和天皇をしのぶ昭和の日だ。今年も「昭和の日」を祝わない集会とデモが実行された。
今年の集会の趣旨は次のようなものだった
「大地震、大津波、原発事故に見舞われ最悪の事態が生じている。しかし日本社会は相変わらず差別・排外主義の社会であり、領土ナショナリズム、日米安保・米軍基地の問題、沖縄の問題など何一つ変わらない。『昭和の日』は、そうした近代日本の歴史と戦後体制の間違い、その結果である現在の矛盾を、天皇制ともどもまるごと肯定しようという記念日である。抗議の声をあげよう」
また前夜開催された反安保実行委員会の「4.28〈サ条約・安保60年〉討論集会」との連続行動として実行された。
ただし予定していた大久保地域センターが余震で急きょ改装することになり使えず、近所の公園で屋外集会をすることになった。こんなところにも大地震の余波が現れたわけである。4.29集会は、「反天連を射殺せよ!」の街宣右翼と多数の警官・公安が集合するのは恒例になっている。だが屋外で開催したため想定外の事態に見舞われた。まず途中雨が強くなり、雨やどりで集会が10分ほど中断した。そのうえ、たまたま近所(といっても少し離れた場所)で火災が発生し、黒煙が流れてきたり消防車・救急車までかけつける騒ぎが起こった。そのためおそらく報道のヘリと思われるが、上空を旋回するヘリが、はじめは1機だったのが、2機、3機と増え、騒音がすさまじかった。来なかったのは戦車と自衛隊くらい(ちょっと大げさ)の大変な屋外集会となった。
屋外集会という性格もあり、各団体からの長めのアピールやスピーチが続いた。そのなかから、印象に残ったものを2つ紹介する。

右から2人目が彦坂さん
●彦坂 諦さん(作家)
司会の方から、「領土ナショナリズムの問題、差別排外主義の問題、沖縄の問題などそれまでの問題は何も変わっていない」という話があった。たしかに、すべての問題が解決されていない。その根源にあるのが天皇がいることだ。制度として、天皇がいることが保障されている。
テレビで天皇が被災地を慰問しているのを見た。その前に菅総理が被災地にいったとき、被災者は首相に詰め寄ったが、天皇に対してはちっとも怒らず、感動していた。
東京大空襲のあと、昭和天皇が車で被災地をみて回ったときも、人びとは土下座し「申し訳ございません。わたしたちが至らずこういうことになりました」と詫びていた。
天皇は、「個」であることを忘れさせるシンボルだ。こういう存在を象徴として置いておくことが、すべての原因だと思う。自分の頭で考え自分で行動できるようになるためには、どうしてもこういう障害物をなくさないといけない
共和制という制度は、たしかにブッシュのようなとんでもない指導者を生み出す制度だ。しかし共和制は、選んだ人間の責任がはっきりしている。自分たちが選んだのだから、自分たちが変えなければいけない。こういう思想が共和制なのだ。
君主制は違うし、なかでも天皇制は権力側に一番都合がいい装置だ。今日は朝からイギリスのロイヤルウェディングで大騒ぎだが、イギリスの王室制と比べてさえ、天皇制は権力側にとってすぐれた制度だ。
だからこれに切り込まない限り、私たちは本当の意味で解放されない。

●天野恵一さん
原発報道は裕仁のXデー報道と似たところがある。初めからホラを吹くことを決めてホラを流し、専門家やコメンテーターを動員し、巨大なホラがわたしたちの情報環境を包み込んだ。それは原発が国策だったからであり、国策のシンボルが天皇制なので、だから似てくるのだ。これをどう撃ち返していくか。
4月26日の朝日新聞に中曽根元首相のインタビュー記事が出ていた。
中曽根は、1954年国家予算に2億3500万円の原子力予算を初めて押し込み、55年に原子力基本法を成立させた。その前にアイゼンハワーが原子力の平和利用に政策転換することを知り「日本も負けてはならない」と思ったと書かれている。しかし広島・長崎の被曝からいったい何年たったときのことなのか。アメリカが押し付けたものなのに中曽根ははしゃぎ、いまの事態となった。
わたしたちは日米安保も天皇制も問題にしてきた。今後は原発政策についても、戦後体制の強固な軸としてアメリカとの関係のなかで形成されてきた歴史を、批判的に整理し直す必要がある

その他、差別・排外主義に反対する連絡会、新しい反安保行動をつくる実行委員会山谷労働者福祉会館自由と生存のメーデー、福島原発事故緊急会議、靖国・天皇制問題情報センター、佐藤文明さんを偲ぶ会、「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会、労働運動活動者評議会、ヘイトスピーチに反対する会新宿ど真ん中デモなど多くの団体からアピールがあった。
学校職員の方から、震災後学校で半旗が掲げられ、1か月後の4月11日14時46分に黙とうをして旗をしまったという報告と「一人ひとりの悲しみは異なる。それなのにいっせいの形での黙とうは悲しみを強制することだ。『これは違う』と声を上げよう」というアピールがあった。たしかに「がんばれ日本!」コールのように、社会の同調圧力が増しているように感じる。ここから「非国民」の名指しコールへの転換はあと一歩である。

☆この日の会場は「小泉八雲公園」という公園だった。なぜ新大久保に小泉八雲がと思ったら、公園の東側の大久保小学校のある場所が八雲の終焉の地とのことだ。八雲は松江、熊本、神戸を経て、1896年から東京大学英文科講師となり上京する。はじめは市谷富久町に住み、1902年この地に転居し2年後の04年に亡くなった。
公園は、八雲の母の国ギリシャの庭園を模し、1993年に作られた。幼少期を過ごしたアイルランドから贈られた2つの銘板が設置されていた。周囲は静かな住宅街だった。

☆新大久保の駅を出ると、人がいっぱいだった。歩道があまり広くないせいもあるが、ディズニーランドや竹下通り並みの雑踏で歩きにくかった。人が集まっているのは、ひとつは「韓流百貨店」や「芸能人ひろば」など韓流スターのポスターやグッズを売っている店、もうひとつは韓国料理の店だ。夜、サラリーマン男女ではやっていることは知っていたが、こんなに若い女性が大勢、それも行列をつくって並んでいるのには驚いた。行列ができている店は1軒や2軒ではない。「オムニ食堂」、「韓サラン」、「南大門」、「とんちゃん」などずいぶん数が多かった。
そんな「観光地」のなかを黒い街宣車が列をなして走行するのはやはり異様だった。それも突撃ラッパをスピーカーで大音響で流すのだからじつに異様な光景だった

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