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日銀貨幣博物館で学ぶ貨幣の歴史と文化

2019年01月20日 | 博物館など
日本橋本石町に日本の金融政策の総元締め日本銀行がある。江戸時代には銀座ならぬ金座があった場所だ。道路を隔てたところに日本銀行金融研究所貨幣博物館があり、無料で見学できる。
貨幣博物館という名から、古銭がたくさん展示してある博物館かと思ったが、行くとそうではなかった。案内板によれば、貨幣の歴史や役割、貨幣と文化・社会をテーマとする博物館だった。

7世紀につくられた富本銭からスタートした日本の銭貨は「和同開珎(ちん)」など13種類の銅銭へ10世紀にかけて発展したが、品質がだんだん粗悪になり布や米がお金として使われる時代に逆戻りし、次に12世紀ごろから渡来銭(宋銭)の流通がはじまり、江戸時代に全国統一貨幣の時代が始まったといった貨幣の大きな歴史の流れを理解できた。

わたしの関心は明治以降が主なので、そのブロックを中心に紹介する。
1872(明治4)年、政府は新貨条例を公布し円・銭・厘の単位を決め、新たな貨幣や紙幣をつくり、士族が始めた士族銀行をはじめ全国に153も国立銀行券を発券できる銀行ができた。国立とはいっても民間銀行であり、アメリカのナショナルバンクを見本にした銀行である。州法に基づくステートバンクでなく国法に基づくナショナルバンクの訳に過ぎない。
日本銀行の誕生には、昨年の大河ドラマ「西郷どん」の西南戦争が大いに関係している。
1877(明治10)年の西南戦争には多額の戦費が必要で、明治政府は多額の不換紙幣を発行しインフレが発生した(なお西郷軍も戦費調達のため西郷札を発行した)。そこで1881(明治14)年大蔵卿に就任した松方正義はデフレ策をとり、国立銀行券など不換紙幣回収を積極的に進め、紙幣価値が回復した。翌82年に中央銀行・日本銀行を設立した。一方、83年国立銀行条例を改正し、国立銀行は営業年限満期(20年)ののち私立銀行に転換できるが発券できないことになり、85年から日本銀行が兌換紙幣を発行する唯一の銀行になった。国立銀行は96-99年に営業年限を迎え、122行が預金・貸出を行う私立銀行に転換した。

当初の日銀は本石町ではなく、箱崎の旧北海道開拓使東京出張所の社屋を利用した。しかしすぐ手狭となり、1896年に本石町に引っ越した。この新社屋の設計は、東京駅や旧国技館を設計した辰野金吾によるものだった。丸い柱と緑のドーム屋根が特徴だが、来年夏完成予定で現在免震化工事が進行中で金属フェンスで隠されている。
日清戦争に勝利した日本は賠償金をポンドで受け取ったこともあり、西欧諸国と同じ金本位制を採用することにし金0.75gを1円と定めた。このポンドが金本位制維持の準備金となった。
金本位制採用(1897年)で貨幣流通が盛んになり製糸業や紡績業が発展し、日露戦争の戦費を外債で調達することになった。しかし第一次大戦が勃発すると欧米各国にならい金本位制を停止した。
その後、物価高騰による米騒動、大戦後の不況、関東大震災と金融恐慌、取り付け騒ぎなどを経て1930年に金本位制に復帰したが翌年には再び離脱し、管理通貨制度に移行し、太平洋戦争への道を歩んだ。通貨管理制度は、自国通貨の価値を金と切り離し、中央銀行の金融政策通じて管理する制度で、主要国は1930年代に通貨管理制度に移行した
戦後は急激なインフレに対する新円切り替え、ドッジラインによるインフレ収束が断行された。というように激動の70年の金融情勢を概観できた。
残念なのは、ここまでしか展示がないことだ。その後の高度経済成長、オイルショック、不況とバブル景気、バブル崩壊と「失われた10年」などその後の70年のことがまるでないのは、片手落ちというかなんと表現すればよいのだろう、あるいはどこかほかの場所に近現代の展示場をつくるつもりなのだろうか。
学芸の人に聞くと、ここは貨幣の博物館なので新円切り替え以降の紙幣と貨幣そのものの変遷は展示してある。日銀の金融政策の歴史は日本銀行百年史を参照してほしいとのことだった。
(ただし100年史なので1982年、いまから27年前のことまでしか書かれていない)
トリビアな知識、クイズ的な知識は山のように得られる。たとえば永楽通宝を軍旗に用いた武将は?(答え 織田信長)、戦時下ニッケルや銅が不足したため考え出された新素材は?(答え 陶器)、お札の表面に印刷されている印鑑は誰のもの?(答え 日銀総裁)など。わたしは日本の貨幣の始まりは708年の和同開珎だと思っていたが今ではそうでなく富本銭で、しかも「わどうかいほう」とは読まず「わどうかいちん」だとか。

また本物の千両箱の大きさや小判を入れたときの重さを体験できる。約20キロで結構重かった。一方1億円の札束は、1000万の束の厚さが10㎝で10束でも10キロとさほど重くない。天正大判の金貨は長さ約17センチとかなり大きいが重さは165グラムであまりありがたみがない。一方、タテの楕円形で両横に小さい半円のくぼみがある小分銅は375グラムでずっしり重い。ニセ紙幣を防止するため、版木を3枚に分けた実験など、体験型の展示も多くあった。
 
免震工事中の日本銀行本館
「この博物館の土地には、昔はなにがあったのか」聞いてみた。博物館の前身は銭幣館コレクションだが、土地は三井家からわけてもらったとのことだった。たしかに日銀の隣は三井本館、貨幣博物館から1軒おいた隣が三越本店だから、日本橋のこのあたりはすべて三井グループの土地だったのかもしれない。

銭幣館は1923年に古銭の研究・収集家で東洋貨幣協会会長だった田中啓文(1884-1956)が自宅に煉瓦づくりの建物を建て開設した博物館だった。
コレクションや資料は10万点に及んだが、戦時中空襲による被災を恐れ1944年末、日本銀行に寄贈した。そのときの総裁は澁澤敬三だった。澁澤は澁澤栄一の孫で第一銀行副頭取だったが日本常民文化研究所という民俗学の博物館をつくるような人物だったので、貨幣のコレクションにも興味をもった。澁澤が退任してからだが1948年標本貨幣室として公開開始、日銀創立100周年記念事業として1985年11月に改組オープンした。

「図録 日本の貨幣」(全11巻)
なかなか充実した博物館だが、残念ながらモノクロ8pの簡略な展示ガイド以外に、解説パンフがなかった。カタログは2000円以上するため手が出ない(ウェブサイトで見ることはできる)。ところで入口付近で「図録 日本の貨幣」(全11巻  土屋喬雄・山口和雄 72.11-86.6 東洋経済新報社)という全集の展示をみつけた。10巻は「外地通貨の発行」で日清戦争やシベリア出兵の軍票(軍用手票)発行にはじまり、横浜正金の大連、天津、北京、ハルピン、済南などの支店が発券した銀行券、満州中央銀行の銀行券、仏印進駐軍票、マレー、フィリピン、ビルマなど外貨表示の軍票などの写真や記述があった。詳しく読むことはできなかったが、こういう貨幣流通の面からも日本の海外侵略の足跡を実証的にたどれそうだった。
じつは40年ほど前に、わたくしはこの博物館に仕事で一度訪問したことがあった。ある国立銀行券の撮影のためで、わたくしはカメラマンのたんなる付き添いだったが、相談役だったか顧問だったかの名札のある大きな机に座っておられた土屋喬雄・東大経済学部名誉教授の姿をみかけたことを思い出した。

☆日本銀行の仕事は、お札の発行のほか、「物価の安定」を図ることと「金融システムの安定」に貢献することだそうだ。
しかし黒田東彦総裁が就任し黒田バズーカを発進させて6年近くになるが、そんなことはしていないように思える。
わたしたち庶民にとっては物価は0%または値下がりがありがたいが、アベノミクスに合わせてずっと+2%を目標にしている。日銀にとっては+2%が物価「安定」の範囲内ということらしい。しかしその目論見は6年もたっても「成功」していないうえ、あと何年かかるかすら予測できない。
さらに日銀による国債の大量買入れ(18年9月末中間決算で462兆円を保有)だけでなく多額のETF(同じく21兆円)およびJ-REITの買い入れ(18年3月末で5100億円)の結果、金融システム崩壊も引き起こしかねない爆弾を抱えている。そして、10年以上続くゼロ金利政策の異常さは地銀をはじめとする中小金融機関を痛めつけている。


日本銀行金融研究所貨幣博物館
住所:東京都中央区日本橋本石町1-3-1
電話:03-3277-3037 
休館日:月曜日(ただし祝休日は開館) (祝日の場合は翌日)、年末年始
開館時間:9:30~16:30 (入館は16:00まで) 
料金:無料
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