新宿区市谷にある大日本印刷の文化施設「市谷の杜 本と活字館」を訪れた。企業のかつてのシンボル・時計台を10m北西に移設復元して2020年11月にオープンした。地上2階、地下1階だがそれほど大きな床面積ではない。
以前は工場が立ち並ぶ場所の正門付近にあったが、工場は地方に移設し、オフィスビルと森が広がる。
1階受付脇には、大日本印刷が印刷・製本した日本の名だたる雑誌が並ぶ。ホトトギス(100号 1905)、キング(大日本雄弁会講談社 1925)、リーダースダイジェスト(日本語版創刊号 1946)、週刊新潮(2/9創刊号 1956)、週刊TVガイド(8/4創刊号 東京ニュース通信 1962)、週刊平凡パンチ(5/11創刊号 平凡出版 1964)である。書籍で敗戦直後300万部以上売れたベストセラー「日米会話手帳」(科学教材社 1945)、代表的な大型国語辞書「広辞苑」(初版 岩波書店 1955)もあった。
その他、作字、鋳造、文選、植字など工程の展示、印刷の現場コーナー、喫茶などが並ぶ。津上製作所と1948年に共同開発した活字パントグラフ(ベントン彫刻機の日本版母型彫刻機)、平台活版印刷機、製本に使う糸かがり機も展示されていた。いかにも印刷工場らしい金属活字や行間に入れるインテル、余白や字間に入れるクワタ、スペースなどの込物、本文活字の1/2の大きさのルビ活字の箱もあった。「米粒のように小さい」という比喩があるが、米粒よりはるかに小さかった。
地下は記録室とあり、なんだろうと思ったら、静止画や動画をみるスペースだった。内容は、過去の企画展、会社の歴史、建物・復元、アーカイブ、全部で23のコンテンツがあった。今後徐々に充実していくのだろう。
2階は、卓上活版印刷機で自分でしおりを印刷する制作コーナーと企画展が開催される展示室、印刷グッズや関連書籍の販売コーナーがある。企画展は、6月初めまでは「活字の種を作った人々」という母型づくりと職人の系譜の展示、その後10月半ばまで「発見!雑誌づくり工場 無線とじ編」を開催していた。
まず「活字」のほうから紹介する。日本の金属活字の起源は長崎の本木昌造に始まることは有名だ。また本木とともにアメリカ人印刷技師・ギャンブルの講習を受けた平野富二が上京してつくった東京築地活版製造所(築地活版)も有名だ。
築地活版には、活字の母型(種字)をつくる部門があり、1873(明治6)年に活字の製造販売を始めた。1876年創業の秀英社(大日本印刷のルーツ)ははじめは築地活版から活字を購入して使用していたが1881年に社内で活字鋳造を始め、やがて築地活版同様活字の販売を始めた。また1912年秀英体を完成させた。
築地体と秀英体が明治の活字の二大潮流だった。
1913年には博文館印刷所(その後の共同印刷)出身の技師が精興社の元となる会社を創業(改称したのは1925年)し、精興社書体を生み出した。
築地活版は1938年に解散したが、その2年前に経営不振のため、当時国内に数台しかなかったベントン彫刻機1台を凸版印刷に売却したので、築地活版の活字はある意味で凸版印刷に受け継がれたともいえる。
また1920年創業の岩田母型製造所も電胎母型を製造した。その他、毎日新聞社や朝日新聞社も、定められたスペースに文字数を詰め込むため生み出した扁平活字を1941年に実用化した。
これらは手彫りの種字を原型に電胎母型でつくられたが、戦後ベントン彫刻機が普及し、機械彫りが主流になった。しかしやはり原図が必要なので、彫刻師は彫刻刀を筆や鉛筆に持ち変えることになり「書体デザイン」という概念が生まれた。その後写真植字の時代を経て、1990年代にはデジタルフォントの時代に移り変わる。モリサワの藤田佳史、小塚昌彦、アドビの西塚涼子などフォントデザイナーが活躍するようになった(パンフの雪朱里の解説より)。
活版印刷が主流だった時代には、欧文なら書体がたくさんあるのに、和文は明朝かゴシックの2種類のみ、それに加えやや特殊だが教科書体とアンチックがある程度だった。写植の時代には、ナール、ゴナなど書体が増えた。デジタルの時代になり、書体は花開き「フォントデザイナー」が活躍する時代になった。すばらしいことだ。
丁合の作業現場の写真(企画展の展示写真より)
「発見!雑誌づくり工場(無線とじ編)」は、無線とじ編というタイトルだったので、てっきり製本、それも無線とじに特化した企画展かと思った。そういうわけではなく、月刊「山と渓谷5月号」が印刷会社に入り、それを印刷・製本するまでを扱っていた。だから活版印刷、グラビア印刷、オフセット印刷の3版方式+シルクスクリーン印刷、カラー印刷するための藍、赤、黄、スミ(CMYK)の4色分解と網点、表紙の枚葉印刷と本文の輪転印刷、丁合・ミーリング(背丁のカット)、ガリ入れ・のり付け・3方断ちの製本までトータルに解説していた。
わたしは一般の人よりは仕事がら印刷のことを知っていたが、知らないこともいくつかあった。たとえば色の印刷の順はCMYKというのだからその順に刷るのだろうと思っていたが、実際にはKCMYの順だそうだ。きっと合理的な理由はあるのだろう。グラビア印刷の版の現物もはじめて目にした。また丁合機械は知っていたが、間違えないよう、折ごとに色が違う結束バンドで縛ることや、無線とじの本文と表紙を糊付けする機械で、表紙を上に持ち上げ本文と密着させることも動画をみてはじめて知った。
また2階にもリソグラフ、箔押し機、中綴じミシン、レーザー加工機、インクジェットのUVプリンター、レーザー加工機などが並んでいた。箔押し機とリソグラフ以外ははじめて目にした。
その他、自分でTシャツにシルクスクリーン印刷したり、活版カードやポチ袋に印刷するワークショップも随時開催しているようだった。
企画展を見学していて、いくつか細かい疑問が出てきたのスタッフに質問してみた。
地域や業界の博物館で、いままでも質問したことがあったが、たいてい真剣に答えてくださることが多い。ところがここは、わからないことはそれまで、という不便さがあった。博物館ではないため学芸員がいないことが大きいようだ。
ところでこの施設周辺では、かつての市谷工場はすっかりなくなり、市谷の杜と名付けるだけあり、自社ビルや関連施設のビルと森が広がる。開発許可標識によると6万1300平方メートルを26年がかりでいまなお工事継続中、新たな町が出現したような感じだ。
杜のほうも、標識にシラカシ、アオハダ、マユミ、ネジキ、ガマズミの名がみえた。シラカシ、マユミは名前は聞いたことがあるが、見るのははじめて、新宿区のこんな都心でみるとは思わなかった。朝8時から夕方18時まで一般公開されている。
柳田國男旧居跡の表示、左は平面図
☆かつて牛込柳町近くに5年半ほど住んでいたことがある、大妻女子大加賀寮はいまもかつてと同じ場所に建っていた。いまは、正面に「『遠野物語』誕生の場所 柳田國男旧居跡」という説明板が設置されていた。柳田は大学卒業翌年、柳田家の養子となり市谷のこの地の家に1900年から27年まで住んだ。仕事は、農商務省、法制局参事官、内閣書記官などを歴任した。「遠野物語」の話者・佐々木喜善は当時早大生で文京区水道二丁目に下宿し、毎月のように柳田邸を訪れた。本の出版は1910年なので、この家で書かれた可能性が高い。
柳田邸の図面もあり、敷地3200平方メートル、総建物面積415平方メートル、部屋数20近く庭も広大な邸宅だった。
加賀町という名前からわかるよう、江戸初期には加賀藩主・前田光高夫人邸、その後も武家屋敷が並んだ一角なので、不思議はない。
その他、納戸町公園の前でクーデンホーフ光子が18歳で国際結婚し22歳で渡欧するまで住んでいた居宅跡という史跡の表示もみつけた。日銀の家族寮、牛込三中は昔と同じ場所にあったが、外観や塀はまったく変わっていた。梅原龍三郎邸や江崎真澄・元通産大臣邸もあったはずだが、どこだったか、いまとなっては思い出せない。
●市谷の杜 本と活字館
住所:東京都新宿区市谷加賀町1-1-1
電話:03-6386-0555
開館日:水曜日~日曜日(臨時休館あり HPで確認)
開館時間:10:00~18:00
入館料:無料
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。