瞬間的に、自分はとんでもなく酷いことをやってきたのではないかという思いが彼の脳裏を掠めたが、彼はそれを押し殺した。こうなっては後へは退けないし、反省することすらすべきでない。彼が入って来たドアの反対側にあるドアが開かれた。マダム・ダルジュレが入って来た。しかし客たちの前で酷く取り乱したあの彼女ではもうなくなっていた。一分間気を落ち着ける時間があったおかげで、危険な状況下でも事態を好転させることの出来る勇気が彼女に戻ってきたのである。自分が冷静でいられるかどうかに自分の身の安泰が掛かっていると彼女は思ったので、あらん限りの力を振り絞って絶望を振り払い、絶壁を伝い歩きながらも毅然として眩暈を寄せ付けまいとする者の勇気を奮い立たせていた。確かに、表面的には彼女は平静で冷笑的、高慢で大理石のように冷然として見えた。
「この名刺をお持ちになったのは貴方ですね?」と彼女は尋ねた。
すっかり気後れして、ウィルキー氏はただお辞儀をして、殆ど聞き取れないような返事をぶつぶつと呟くことしか出来なかった。
「あ、これは、し、失礼しました!すみません、本当に申し訳ないことです。お邪魔をしてしまいまして……」
「お名刺には」とマダム・ダルジュレは軽蔑と皮肉の入り混じった口調で遮った。「貴方はウィルキー様とおっしゃって、なんでも競走馬品種改良に従事していらっしゃるのですね?」
この青年の名刺には実際そう書かれてあった。『法科の学生』と書くのはいかにも平民的でしみったれた感じがしたので、長いこと考えた挙句、この輝かしい肩書を思いついたのである。どこの? 何の? どのようにして改良する? これは一体どういう意味なのか? 彼には答えることは出来なかった。が、こうすれば響きが良いし、立派に見える。競走馬品種改良、馬、競馬、騎手、そして『ナントの火消し』……すべてつながっている。ウィルキー氏のような人々の頭にある論理というのは測り知れないものがある。
「あぁあぁ、そうなんですよ」と彼はもったいぶって自分の名前を強調しながら答えた。「私はウィルキーと申します」
「私に何か話がおありだとか」とマダム・ダルジュレはそっけない態度で言った。
「そうなんです、実は……」
「あのですね! お話はお聞きしますけど、今はとても都合が悪うございますのよ。わたくし八十人もの方々をおもてなししなければなりませんの。話があるなら、さっさと話してください!」
話せ、と言うのは簡単だ。ところがウィルキー氏の方では一言も発することが出来なかった。彼の口はからからに乾いて舌は麻痺したようになっていた。いま口の中にあるのは唾液でなく砂ででもあるかのように彼には思えた。2.7
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます