エミール・ガボリオ ライブラリ

名探偵ルコックを生んだ19世紀フランスの作家ガボリオの(主に)未邦訳作品をフランス語から翻訳。

2-II-10

2022-08-22 09:17:55 | 地獄の生活

世間はみな新聞によって我が妻の身にまとう物ばかりか、まとわぬ時の身体つきまで知っている。足や手の美しさ、輝くばかりの肩、左肩には愛らしく挑発的な黒子があることまで。私は昨夜有難くも、それを読ませて貰ったよ。ああ、まさしく挑発的だった。この私は正真正銘の幸運な夫というわけだ。実に素敵ではないか!」

喫煙室からでも、怒りに地団太を踏む夫人の様子がパスカルには分かった。

「侮辱とはこのことだわ!」彼女は叫んだ。「あなたが言っている記事を書いたのは無礼者よ、そんな……」

「無礼者とは何故だね? 彼らが何の罪もない家庭の主婦に群がったりしているとでも?」

「私に敬意を払ってくれる夫が私に居たら、彼らも私のことを記事にしたりしなかったでしょう」

男爵は神経質な笑いを爆発させた。それは耳障りの悪い笑い声で、その皮肉の下に深い苦悩が隠されていることを感じさせた。

「それでは私に決闘をしろとでも言うのかね?」と彼は言った。「二十年を経て、またぞろ私から自由になろうという気になったのか? ……信じられんな……お前には受け取る財産が何もないということ、よく分かっている筈じゃないか。私が予防措置を講じておいたからな。それに、新聞にお前の記事がたった一日でも載らなくなるのは残念だろ。

自分を大事にすれば人も敬意を払ってくれる……。お前が文句を言っている報道だが、それこそが社会が野放図に向かうのを食い止める最後の砦だ……正直者の声では圧し止めることの出来ないものでも、ああいった破廉恥を暴露する囲み記事が歯止めとなる。人が誰も良心を持たないときには新聞が一般市民の良心となるのだ……。私はそれは大変結構なことだと思う。……ということで私はもう行く」

ここで何やら騒音がパスカルの耳にも聞こえ、男爵夫人が夫の前に立ちふさがって、出て行かすまいとしたことが分かった。

「それなら、はっきりと申します」彼女は叫んだ。「今夜までにファン・クロペンに渡す二万八千フランを出して貰います。どうあっても出して貰わねばなりません。私にお寄越しなさい」

「おうおう、そうか」彼は唸った。「どうあっても、か。お寄越しなさい、か」

彼はその場に立ち止まり、しばらく考えているようだった。が、やがて言った。

「それなら、よろしい! その額をお前にあげるが、もうちょっと後でだ。しかし、お前がそこまで言うのだから、どうしても今日中に必要なのだな。それなら、一つ方法があるぞ。お前の三万フランのダイヤモンドを質に入れるんだ……そうすることを許そう。そして一週間以内に私がそれを受けだすことを名誉にかけて約束するぞ。さぁどうだ、お前のダイヤモンドを質に入れるか?」8.22

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2-II-9

2022-08-19 09:27:09 | 地獄の生活

「大貴族だと!」と彼は叫んだ。「お前はそう呼ぶのか? 人に注目されるには、話題にされるにはどうすればいいか、ということしか頭にない軽佻浮薄な女どものことを!奇抜さや贅沢さや騙しのテクニックで売春婦たちに勝つことを自慢にし、夫たちから金を巻き上げる腕と言ったら、自分の客の男たちから金を毟り取る売春婦たちに決して負けぬ!大貴族だと!高名な家系に生まれただけの名優を気取った大根役者だ。酒を飲み、夜食を食べ、煙草を吸い、仮面舞踏会を追いかけ、仲間内の符牒で喋り、『美徳に見せかけなくても大丈夫』だの『めんどくさい男はシャイヨー行き』、だの『あのひとは有名、私はその上を行く』だのとほざく。人々から野次を飛ばされれば賛同の声と思い、不評を浴びれば誉め言葉だと思うバカ女たちだ。女性の高貴さはその美徳によってしか得られないというのに……そして何よりも、お前の言う大貴族の奥様方に欠けているのは恥を知る心だ……」

「言っておきますけど」と男爵夫人が怒りで喉を詰まらせた声で遮った。「あなた、自制心をどこかに置き忘れたみたいね……あなたは私に……」

しかし男爵は止まらなかった。

「もしスキャンダルが大貴族を聖別するものなら」と彼は続けた。「お前は立派なお仲間だ……しかも最も高い序列に……ああ、お前は有名人だとも……あのファンシー(当時のパリの人気娼婦ジェニー・ファンシー、「オルシバルの殺人事件」参照)並みにな。お前の振る舞い、娯楽、活動、どんな衣装を身に着けていたか、などは新聞で知るんだからな、私は。劇場の初演公演や競馬場の記事を読むと、お前の名前が必ずそこにある。ファンシーやコーラやニネット・サンプロンの名前と一緒に。そしてこの私は、それにご満悦で……しかも自慢に思わなければ気難しい夫ということになるんだろう。ああ、お前は新聞に格好のネタを提供する……。一昨日、トリゴー男爵夫人はスケートをなさった、昨日は自ら馬車の運転をなさった、今日は鳩撃ちで際立った腕前を披露された……明日は活人画の中でセミヌードにおなりになる……明後日彼女は新しい色に髪を染め、芝居をお演じになる……。ヴァンセンヌの競馬場で騎手の計量の場に姿を見せたのはかのトリゴー男爵夫人であった……トリゴー男爵夫人は五百ルイ損をした……片眼鏡の素晴らしく粋な姿を見せたのはトリゴー男爵夫人である……ブーローニュから戻って『ブランデーを一杯ひっかける』のはお洒落だ、と豪語するトリゴー男爵夫人……。男爵夫人はすることなすこと、すべてが息をのむほどお洒落なので、新商品を世に出す商売人も彼女の名前をその色に冠するほどだ……トリゴー・ブルーは栄華の色、と……。トリゴー風衣装というのもある。というのも魅力的で才気煥発、エレガントな男爵夫人のファッションは独特で誰も考え付かないようなものだからだ。彼女の支持者たち、つまり頭のいかれた愚か者たちの一団が至る所彼女について回り、高らかに褒めそやす……。というわけだ。まじめな亭主、つまりこの私、は毎日社交欄でそれを読まされる。8.19

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2-II-8

2022-08-18 08:17:14 | 地獄の生活

パスカルはほっと息を吐いた。

「僕の名刺が今渡されたんだ」と彼は思った。「それじゃここにじっとしていよう。そのうち誰か来るだろう……」

男爵は部屋から出て行こうとしたのだろう。男爵夫人が夫に声を掛けた。

「もう一言だけ言わせて。本当によく考えた上でのこと?」

「ああ、もちろんそうだ」

「仕立て屋が私を恥ずかしい目に遭わせるのを許すって言うの?」

「ファン・クロペンは魅力的な男だから、お前を悲しませるようなことはしないだろう」

「あなたは訴訟を起こしてみろと彼を挑発したわ」

「おいおい、お前の仕立て屋が訴訟を起こす筈がないことはよく分かっているだろ……残念だがな。それに、恥ずかしい目って何だ? 私には頭のいかれた妻がいる……それが私の罪か? 度の過ぎた濫費には私は反対だ……それが間違っているか? 世の夫たちがみな私の勇気を持っていれば、あのようなまやかしの商品を売りつける店などはさっさと閉店させていたものを。奥様方の虚栄心を刺激し、人形のように飾り立て、愚かしい流行を広めるための広告塔に仕立て上げ、それが彼らを儲けさせている……」

男爵が二、三歩ドアの方に進んでいくのが、パスカルにもはっきりと聞こえた。が、夫人の方が激しい勢いでまくしたて始めた。

「トリゴー男爵夫人は、夫に七、八十万リーブルの年利収入があるというのに、ごく普通のブルジョワの服装も出来ないでいるのよ!」

「それに何の不都合があると言うんだい」

「ああ、そういうことなの! あなたの考えは私のとは違うからという理由で、私は社交界のお友達の中で自分をちょっと目立たせるというささやかな楽しみも持てないのね!」

「ほうそうかい! そりゃ残念だったな。そういうのは、お友達とやらの問題じゃないのかね……」

この言葉は夫人の感情を傷つけたらしい。というのは、彼女が返した言葉には異常な誇張が込められていたからだ。

「私のお友達というのは社交界で最高の地位にいる人たちよ。大貴族ばかりなんだから!」

男爵はひどく軽蔑的に肩をすくめたに違いない。というのはその後の彼の声には、相手を圧し潰すような皮肉と嘲笑が込められていたからだ。8.18

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2-II-7

2022-08-17 09:52:42 | 地獄の生活

今にも言葉に行動が伴い、ファン・クロペンの襟首を掴んで玄関ホールに放り出そうとするかのようであった。というのは、争って地団太を踏んでいるような足音、それにまるで馬方の罵りのような怒声、女性の金切り声、そしてドイツ訛りの叫び声が聞こえてきたからである。それからドアが場タンと凄まじい音とともに閉まり、館全体が震えるほどだった。喫煙室の壁に取り付けられた素晴らしい大時計が音を立てた。この場面はパスカルにとっては奇跡を見る思いだった。この王侯貴族のような館から債権者が請求書を持って手ぶらで帰るなど、誰が想像できたであろう……。

しかし、トリゴー男爵と夫人の間には二万八千フランの勘定以外の何かがある、という思いをパスカルはますます強くした。一晩で眉一つ動かさず一財産を儲けたり擦ったりするような熱狂的な賭けゲーム愛好家にとって、これぐらいの額が一体何だというのか! 明らかにこの家には何らかの癒されぬ傷がある。夫と妻を敵対させる何か恐ろしいあるいは不名誉な秘密があり、互いに逃れられぬ鎖に縛られているため更に一層容赦ない敵同士になっている……。そしてファン・クロペンに向かって浴びせられた侮辱は男爵夫人にも降り掛かるものであるに違いない。

このような考えが稲妻のようにパスカルの頭を一瞬よぎり、いま喫煙室にいる自分の虚偽性を見せつけられる気がした。一度は自分に対しあのように好意を示してくれた男爵に尽力して貰うことを自分は期待していた。が、こうなっては、自分を避け、敵とさえ見なすかもしれない。この会話を聞かれてしまったと分かれば。たとえ自分には立ち聞きする意図などなかったにせよ……。このような羽目に陥ったとは何たる偶然であろうか。自分に名刺を要求した召使は、何故それを返してくれないのだろう? 彼には分からなかった。さて、どのように行動すべきか?

もしも音も立てず退却することができたなら! 誰にも気づかれず、痕跡も残さず姿を消すことができたなら、彼は躊躇なくそうしたであろう。しかし、それは実行不可能だった。彼の名刺は彼の正体を明かしはしないが、遅かれ早かれファン・クロペンが食堂にいたそのときに彼が喫煙室にいたことは知られてしまう! いずれにせよ、礼儀から言っても、彼の身の為を考えても、男爵夫妻の私的なやり取りが聞こえてしまう場所にこれ以上留まるべきでない、と判断した。それで彼は大きな音を立てて椅子を動かし、わざとらしくできるだけ大きな咳をした。万国共通の『ここに誰かいますよ。気を付けて!』の合図である。

しかし、それは気づかれなかった。深い沈黙が続き、男爵が部屋を歩き回る際のブーツのキュッキュッという音、それにテーブルを神経質そうに手でトントンと叩く音がはっきり聞こえていた。もし彼が他人の会話を盗み聞きしたくないという意図をはっきりさせたければ、取り得る行動は一つしかなかった。突然姿を現すことである。彼が覚悟を決めようとしたそのとき、玄関ホールから食堂に通じるドアが開けられたように感じた。耳を澄ましてみたが、複数の声が入り混じっていることしか分からなかった。やがて男爵が答える声が聞こえた。

「よし、分かった。会おう!」8.17

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2-II-6

2022-08-15 09:13:50 | 地獄の生活

「ああ、送ってくれ給え」

「男爵様が訴訟をお望みとは考えられませぬが……」

「そんなことはない!……訴訟大いに結構。貴殿がどのような商売をしているのか、世間に知らしめる良い機会だ! 夫を単なる金貨製造機としか考えない妻たちにうんざりしている夫たちがいるとは思わんのかね! 貴殿のやり方はあまりに強引すぎますよ、クロペンさん。表立っては誰も言わんことを私は大声で言うつもりだ。ちょっとした十字軍を組織しようというわけだが、うまく行くかどうか、それはやってみなければ分からぬ……」

彼は自分の言葉に興奮し、怒りがまた戻ってきた。次第に声のトーンを上げながら彼は続けた。

「ああ、そうとも、スキャンダルになると脅すのがあんたのやり方だ。だがこの私には通用せんぞ。あんたは訴訟を起こすと私を脅す……いいとも、裁判で争おうではないか。ようし、パリ中の人間を楽しませてやろうじゃないか。というのも、私はあんたの内幕をよく知っているのでね、仕立て屋さん。あんたの看板のもとでどんな怪しげなパーティが行われているか、知ってるんだ。御婦人方がブーローニュの森から戻る途中にあんたの店に立ち寄るのは必ずしもお洒落の話をするだけじゃない。あんたんとこじゃ、もちろん服の生地も売るがそれだけじゃない。マデラ酒やポートワインや極上の葉巻も売っている。お客の中には、あんたの店を出るとき真っ直ぐに歩けなかったり、葉巻やアブサンの匂いをプンプンさせている人たちもいるという話だ。訴訟、受けて立とうじゃないか。あんたの店で女たちがどんなサービスをしているか、きちんと申し立てることのできる弁護士を雇うつもりだ。ちゃんとした証拠を示して暴露する。支払いに困った婦人客が夫の財布に頼る以外でどうやって金の工面をしているか……あんたの計らいで……そんなことさえなければ、彼女たちも風俗紊乱の廉でしょっぴかれたりすることはなかったろうに」

このような口調でまくし立てられては、ファン・クロペンもすっかり立腹した。

「それでは私の方でもこう言いますぞ!」とクロペンは叫んだ。「トリゴー男爵はカードゲームですってんてんになった挙句、債権者に向かって侮辱を浴びせて借金を踏み倒す、と至る所で触れ回りますからな」

ここで椅子がひっくり返される音がしたので、男爵が乱暴に立ち上がったのだとパスカルは理解した。

 「何とでもぬかせ、このいかがしい野郎め」と彼は怒鳴った。「だが俺の家の中では許さぬ! さぁ出て行け! 呼び鈴を押すぞ」

 「男爵……」

 「出ろ、出ろ! さもないと召使より前に俺がこの手でつまみ出すぞ」8.15

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