今にも言葉に行動が伴い、ファン・クロペンの襟首を掴んで玄関ホールに放り出そうとするかのようであった。というのは、争って地団太を踏んでいるような足音、それにまるで馬方の罵りのような怒声、女性の金切り声、そしてドイツ訛りの叫び声が聞こえてきたからである。それからドアが場タンと凄まじい音とともに閉まり、館全体が震えるほどだった。喫煙室の壁に取り付けられた素晴らしい大時計が音を立てた。この場面はパスカルにとっては奇跡を見る思いだった。この王侯貴族のような館から債権者が請求書を持って手ぶらで帰るなど、誰が想像できたであろう……。
しかし、トリゴー男爵と夫人の間には二万八千フランの勘定以外の何かがある、という思いをパスカルはますます強くした。一晩で眉一つ動かさず一財産を儲けたり擦ったりするような熱狂的な賭けゲーム愛好家にとって、これぐらいの額が一体何だというのか! 明らかにこの家には何らかの癒されぬ傷がある。夫と妻を敵対させる何か恐ろしいあるいは不名誉な秘密があり、互いに逃れられぬ鎖に縛られているため更に一層容赦ない敵同士になっている……。そしてファン・クロペンに向かって浴びせられた侮辱は男爵夫人にも降り掛かるものであるに違いない。
このような考えが稲妻のようにパスカルの頭を一瞬よぎり、いま喫煙室にいる自分の虚偽性を見せつけられる気がした。一度は自分に対しあのように好意を示してくれた男爵に尽力して貰うことを自分は期待していた。が、こうなっては、自分を避け、敵とさえ見なすかもしれない。この会話を聞かれてしまったと分かれば。たとえ自分には立ち聞きする意図などなかったにせよ……。このような羽目に陥ったとは何たる偶然であろうか。自分に名刺を要求した召使は、何故それを返してくれないのだろう? 彼には分からなかった。さて、どのように行動すべきか?
もしも音も立てず退却することができたなら! 誰にも気づかれず、痕跡も残さず姿を消すことができたなら、彼は躊躇なくそうしたであろう。しかし、それは実行不可能だった。彼の名刺は彼の正体を明かしはしないが、遅かれ早かれファン・クロペンが食堂にいたそのときに彼が喫煙室にいたことは知られてしまう! いずれにせよ、礼儀から言っても、彼の身の為を考えても、男爵夫妻の私的なやり取りが聞こえてしまう場所にこれ以上留まるべきでない、と判断した。それで彼は大きな音を立てて椅子を動かし、わざとらしくできるだけ大きな咳をした。万国共通の『ここに誰かいますよ。気を付けて!』の合図である。
しかし、それは気づかれなかった。深い沈黙が続き、男爵が部屋を歩き回る際のブーツのキュッキュッという音、それにテーブルを神経質そうに手でトントンと叩く音がはっきり聞こえていた。もし彼が他人の会話を盗み聞きしたくないという意図をはっきりさせたければ、取り得る行動は一つしかなかった。突然姿を現すことである。彼が覚悟を決めようとしたそのとき、玄関ホールから食堂に通じるドアが開けられたように感じた。耳を澄ましてみたが、複数の声が入り混じっていることしか分からなかった。やがて男爵が答える声が聞こえた。
「よし、分かった。会おう!」8.17