「体育大嫌い」エッセーに共感◆ヒャダインさん訴え、大学で教材に #令和の子(Yahoo!ニュース 時事通信)(2025年02月15日)
体育教員向けの専門誌に掲載されたヒャダインさんのエッセーに関する話題です。ヒャダインさんのエッセーも然ることながら、この内容を掲載した専門誌の判断にも敬意を表します。
私自身、小・中・高の体育の授業で何かを「学んだ」という記憶がほとんどありません。大抵の体育の授業は、基本的にクラスをチームに分けて練習試合を繰り返すような感じでした。
幼少の頃の私は病弱で、学校を欠席することが多く、友達も少なく、もちろん勉強にも殆どついていけない有様でした。外で元気よく遊ぶこともままならず、内に篭ることが多い子供でした。当然、体を動かすスポーツの類は全くの不得手で、ルールも余り判らない状態でした。しかも、学校の授業でもまともな説明は無かったように記憶しています。それこそ「周囲の動き」を見て、見よう見まねで覚えていったものです。
そんな調子で、体育音痴の私は、クラスの中でも「見せしめ」にされ、「馬鹿」にされ、「笑い者」にされ、半ばいじめられる・・・そんな苦行の時間でした。この苦しみを理解してくれる存在などいるはずもありません。
大学に入って「体育」が選択制になった時、心の底から喜びを感じました。一方、実際には大学教養課程の体育は、受講した学友の話によると、小・中・高の「体育」とは別物とのことでした。話を聞いていると、「これなら受講しても良かったかな・・・」と思ったものです。
確かに「体を動かして健康増進に努めること」には意義があると思います。また、「スポーツに親しむこと」は大切だと思います。しかし、私が経験してきた「体育の授業」は、これらの目的に合致したものではありませんでした。むしろ「弱い者いじめ」の契機となり、またそれを助長するものであったとさえ感じています。
最後に、体育が苦手で苦しんでいるお子さんへ・・・
もし今、君がこの記事を見ているならば、声を大にして言いたい。
この苦しみには必ず「終わり」があります。
体育の授業は「卒業」する日が必ず来ます。
大人になれば「体育の成績」なんて関係ありません。
「学校」という狭い世界だけが、「世界の全て」ではありません。
君が輝ける場所は、これから自分で見つけて行けば良いのです。
こちらの過去記事も参考になるかも知れません。
「夏休み」が終わる時期なので(2019年08月23日)
体育教員向けの専門誌に掲載されたヒャダインさんのエッセーに関する話題です。ヒャダインさんのエッセーも然ることながら、この内容を掲載した専門誌の判断にも敬意を表します。
私自身、小・中・高の体育の授業で何かを「学んだ」という記憶がほとんどありません。大抵の体育の授業は、基本的にクラスをチームに分けて練習試合を繰り返すような感じでした。
幼少の頃の私は病弱で、学校を欠席することが多く、友達も少なく、もちろん勉強にも殆どついていけない有様でした。外で元気よく遊ぶこともままならず、内に篭ることが多い子供でした。当然、体を動かすスポーツの類は全くの不得手で、ルールも余り判らない状態でした。しかも、学校の授業でもまともな説明は無かったように記憶しています。それこそ「周囲の動き」を見て、見よう見まねで覚えていったものです。
そんな調子で、体育音痴の私は、クラスの中でも「見せしめ」にされ、「馬鹿」にされ、「笑い者」にされ、半ばいじめられる・・・そんな苦行の時間でした。この苦しみを理解してくれる存在などいるはずもありません。
大学に入って「体育」が選択制になった時、心の底から喜びを感じました。一方、実際には大学教養課程の体育は、受講した学友の話によると、小・中・高の「体育」とは別物とのことでした。話を聞いていると、「これなら受講しても良かったかな・・・」と思ったものです。
確かに「体を動かして健康増進に努めること」には意義があると思います。また、「スポーツに親しむこと」は大切だと思います。しかし、私が経験してきた「体育の授業」は、これらの目的に合致したものではありませんでした。むしろ「弱い者いじめ」の契機となり、またそれを助長するものであったとさえ感じています。
最後に、体育が苦手で苦しんでいるお子さんへ・・・
もし今、君がこの記事を見ているならば、声を大にして言いたい。
この苦しみには必ず「終わり」があります。
体育の授業は「卒業」する日が必ず来ます。
大人になれば「体育の成績」なんて関係ありません。
「学校」という狭い世界だけが、「世界の全て」ではありません。
君が輝ける場所は、これから自分で見つけて行けば良いのです。
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