アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

十牛図はどこで逆転するか

2022-12-11 07:13:32 | 無限の見方・無限の可能性
◎禅には、悟りで遊ぶという段階が薄い

十牛図は、第三見牛で見性、見仏する。どこでニルヴァーナに到達するのかと言えば、第八人牛倶忘である。牛は、宇宙全体、第六身体アートマンの謂い。

十牛図は、第三見牛以降は次のように並ぶ
第三 見牛、
第四 得牛、
第五 牧牛、
第六騎牛帰家
第七忘牛存人
第八人牛倶忘

全体の流れで言えば、第三見牛で見性したので、以後第七忘牛存人までが、悟り後の修行、聖胎長養となる。

例の雑念、想念を消す修行は、第五牧牛の序(慈遠禅師)に「ある意識が起こるやいなや、後から他の思いがくっついてくる。本心に目覚めることによって、真実を完成するのであり、それを見失っているから、迷妄なのだ。対象のせいでそうなるのではなくて、自己の心が起こしているに過ぎぬ。牛の鼻の綱を強く引くことだ、もたついてはならぬ。」と、出ているが、チベット密教とは違い、さも自分のコントロールで雑念、想念を消せるが如く書いているのは、単刀直入な禅らしい風情である。

※訓読
「前思わずかに起これば、後念相随う。
覚に由るが故に以って真となり、迷に在るが故に而も妄となる。
境によって有なるにあらず、唯だ心より生ず。
鼻索牢く牽いて擬議を容れざれ。」

第七忘牛存人では、牛は自宅に隠れ姿を見せない一方で、自分は、天地創造以前の一筋の透明な月の光で改めて仏を確認できている。だが、まだ見ている自分が残る。
頌に「紅日三竿猶お夢を作す。(朝日が高く昇るころになっても、まだ人はゆめうつつ。)」とあり、まだ夢を見ているようでは、完璧な悟りではなく、見ている自分を残している。熟眠中に夢を見ないという課題が達成できていないのだ。

第八人牛倶忘でようやく自分個人と世界が逆転。第八人牛倶忘では、いままでの人と牛の分離はまるで最初からなかったかのように、また世界全体と一体化するという神秘体験もまるでなかったかのように説明している。だから、未悟者にとっては、自己と世界全体の逆転ということは、十牛図を見渡してもともすれば気がつきにくい。
 
『第八人牛倶忘
   
序(慈遠禅師)
迷いの気持が抜け落ちて、悟りの心もすっかりなくなった。仏のいる世界に遊ぶ必要もなく、仏のいない世界にも足をとめずに通り抜けなくてはならぬ。凡聖のどちらにも腰をすえないので、観音の千眼さえ、この正体を見てとることはできない。鳥が花をくわえてきて供養することなど、顔の赤らむ場面だ。

頌(廓庵禅師)
鞭も手綱も、人も牛も、すべて姿を消した。青空だけがカラリと遠くて、音信の通じようがない。真っ赤な溶鉱炉の炎の中に、雪の入り込む余地はない。ここに達して初めて、祖師(達磨大師=中国での禅の始祖)の心と一つになることができる。』

逆転ということで言えば、南泉斬猫の故事がある。
禅僧南泉が弟子たちに「誰かが悟りとは何かを言えれば、猫を斬らない」と宣言したのに、誰も言えなかったので、猫を斬殺した。翌日高弟趙州がこの話を聞くとすぐに、はいていた草履を脱ぐと頭にのせて出ていった。草履を頭に載せるのは逆転の表現。

禅では、逆転のことをあまり言わないのは、教えてあげないことの親切の一環だと見ているのだろうか。

あるいは、世界全体・アートマンと一体化してその精妙なるディテールに遊ぶというステップが、クンダリーニ・ヨーガ系ならあるべきだが、禅ではその段階をすっ飛ばしていきなり第八ニルヴァーナに入るのが禅らしいということなのだろう。

つまりクンダリーニ・ヨーガ系ならば、第七忘牛存人と第八人牛倶忘の間にもう一段階設けるだろうということ。そのもう一段とは、既に宇宙全体と自分の逆転が成ったが、何もかもなし、モクシャ、ニルヴァーナまではまだ進んでいない段階のことである。
それがないのが、禅らしい。

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