◎私はとこしえに楽しく生きたい!(老子狂言)
『私はとこしえに楽しく生きたい!
天馬、空を行き
行くところ可ならざるはなしという
人生の達人だからとて
本当にわかっているものなど何一つなかろうよ
死の悟りを開き
神と霊のカラクリを
つぶさに体験したからといって
実際のところ何がわかったと言うのだろう
光明以上の光明
至悦以上の至悦
わかることとわからないことの彼方の
サマディーを体験したからとて
それが何だというのだ
庭先にマーガレットの花が咲き乱れ
すづめの鳴き声はすづめの鳴き声らしい
そして
私は生きているらしい・・・
時には不安にめいり
時には極楽のエクスタシーに酔いながら
私はどこからどこへ行くのかを知らないばかりか
こう書いていることも
こう書いている私とやらも
ぜんぜん知りはしないらしい・・・
やれ観念的だ抽象的だ
やれ実質がある実行がある
やれ現実だ
やれ夢だ
私達は何て馬鹿げたゲームにうつつをぬかしているのだろうか
草花が初夏の風にゆれることが現実であろうか?
ノイローゼ青年が見た空飛ぶ円盤は幻覚だというのか?
誰も何も知りはしないさ・・・
私はとこしえに楽しく生きたい!
たとえ、それが、まっかなウソであろうと』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
以下【】内は上掲詩から引用。
【本当にわかっているものなど何一つなかろうよ】
これは、別の『サッパリわからん(老子狂言)』に出て来る
≪おれは、すべてを見抜いたぞ!
けれども、
おれは、
何が何だかサッパリわかりはしない・・・≫
を前提にしており、同様の感慨が次に続く、
【死の悟りを開き
神と霊のカラクリを
つぶさに体験したからといって
実際のところ何がわかったと言うのだろう】。
さらに、
【光明以上の光明
至悦以上の至悦
わかることとわからないことの彼方の
サマディーを体験したからとて
それが何だというのだ】
では、サマディーという水平の悟りを得ても、人間である以上、人間の二重性は変わらないので、【それが何だというのだ】と、突き放す。
究極という体験とはいえない体験を経て、再び人間に戻ってくるというのは、こういうものなのだろう。
通俗的には、彼はこの世とあの世をすべて知っており、必要があれば、霊能力、超能力を使いまくれるが、【それが何だというのだ】。
【私は生きているらしい・・・】
これは、死の世界から生還すると、自分が生きているのが、現界なのか霊界なのかわからなくなることがあるらしい。