◎禅的悟りの展開
(2010-08-12)
『先鋭登山家は生き残るためにきわめて直観的な認識を必要とする。彼は論理も能力も通じないところをくぐり抜けるために、一種の本能を働かせなければならない。
そういうとき彼はまたさまざまな感覚を極度に受け入れやすくなっている』
(死の地帯/ラインホルト・メスナー/山と渓谷社P169から引用)
これは、登山家メスナー自身の言葉だが、ここで働かせた「一種の本能」こそが、禅者の求めるところのもの。禅的悟りが展開したのだと思う。
この極めて「直観的な認識」を求めて、山に登らない人は、坐るのである。
さらに
『先鋭登山家はしばしば生に非常に貪欲であって、死を受け入れるにいたるまで非常に長い時間を要する。むしろ場合によっては、他人を犠牲にしても自分を犠牲にしないくらいのバイタ リティがあるのである。
しかし瀕死の体験によって、自分と無とが同じであることを理解した者は、死に対する姿勢が変わる。死を憧れたり、死んでいたほうがよかったものをということでなく、死ぬことをそれまでほど恐れなくなるのである。
登山家が、しばしば格好いい言い方で「命を賭ける」のも、自殺とは何の関係もない。彼らは登攀ルートの「計算された狂気」によって死へ赴こうとしているのではなく、実は生へ、自分自身へ到達しようとしているのである。
このことをすでにランマーがその著『ユングボルン』の中で明確に述べている――
「このころは私は山に入ると、以前よりずっと生命のぎりぎりまで肉迫した。しかし断わっておくが、死んでもいいというような気分でではない。逆に、まさにそこでこそ、私は私の中の一番奥底から、あくまで生き抜こうとする建設的な力がわき上がってくるのを感じたのであ る。」』
(上掲書P178から引用)
まず、『自分と無とが同じであることを理解した者』とは、最低でも見仏見神した人のこと。死をそれほど恐れないということだが、瞑想家で言えば、素直に自分自身に向き合えているということ。自分自身に向き合うことほど恐ろしいものはない。
歴戦の先鋭登山家が皆このようであったなら、とても素晴らしいことである。武道のような“登山”道を半ば極めている。
航空機パイロットの訓練や宇宙飛行士の訓練メニューは、最後の最後までどんな意外なインシデントであっても生き残る方法を求める方向であるらしいが、死に向き合っていることに関しては、先鋭登山家と変わりはない。
航空機パイロットや宇宙飛行士で瀕死のピンチから生還した人はどう思っているのだろうか。
なお登山でも飛行でも、その道で悟れば、クンダリーニとか言わないので、それは禅的悟りである。