◎世界の秘密へのアクセスに堪えられる自分かどうか
ダンテス・ダイジは、今後の人類は見たくないものを見ると予言している。最初これを聞いた時は、全面核戦争、ポール・シフト、大地震大洪水などの天変地異をイメージして、いやな気分になったものだ。最近はそれについては、釈迦もイエス・キリストも大悟直前に悪魔に襲われたのだが、人類全体が至福千年に入るには人類全体が大悟せねばならないが、その直前に人類も釈迦やイエスのような見たくもない体験を経ねばならないことを示唆していると考えるようになった。
世界の秘密や都市伝説もののyoutubeを見ると、焦点はひたすら世界の秘密を知りたいであって、いやなものを見ることへの恐怖や不安はほとんど感じられない。感性がフラットであるというのはわかるが、私の感じでは、善悪の切り分けと虐げられたものへの慈悲・愛に、やや関心が薄いのではないかと思われる。スピーカーの年齢は老若男女取り混ぜているので、全世代的にそうだが、若い人ほどその傾向が強いのかもしれない。
求道の道は、知の道、情の道とあって、知の道から入れば、確かにそうなのかもしれない。一方、幼少時から片親や両親早世で、無常を強く意識せざるを得ない環境に生まれてきた人に覚者が多いのは歴史的傾向だが、これが情の道。愛に飢える感じは、人を激しい情動に陥らせ、知の道よりも容易に窮極に導く傾向があるのだろう。
そうした例としては、禅で入った一休が、晩年は、念仏門に帰依してしまった消息に見える。
また善悪も知の限界も言わない只管打坐では、なぜか愛・慈悲に目覚める段階がある(“ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ”の只管打坐篇では、慈悲に目ざめる段階と身心脱落と二段になっている。)。
OSHOバグワン流に言えば、究極の悟りを得る中で、世界の秘密を見る人は多いが、それを外に語る人は極めてまれである。「世界の秘密を見た者はそれを語りたがる」の法則があるが簡単ではないのだ。
空海、釈迦、マリア・サビナなど世界の秘密を知ったものはいる。今度は、皆がそれを知る時代であって、その先ぶれとして、youtubeなどで競って、世界の秘密に近い情報を出しているのかも知れない。
結局最後は、自分が体験とは言えない体験をせねばアカシックレコードの読み取りはできないのだ。それはアカシックレコードにアクセスすることに堪えられる自分に成長しなければ起こらないのだろう。こうしたイベントは起こるが、しばしば当人は何が起こったかわからないということもある。