◎あなたはどこかで死んでから今生に出現した
OSHOバグワンの輪廻転生説の続き。
以下の引用文は、自我の死をもって、ブラフマンたる第六身体が誕生することを云う。個である肉体の自分が死ぬことは、アストラル体などの個的媒体(乗り物)が死ぬことでもあり、第五身体たる個が死ぬことでもあるとする。
第五身体たる個が死ぬこととは全体が目覚めることであり、悟りでもある。肉体が死ねば誰でも悟れるのだと言っているようでもある。
OSHOバグワンの説明のとおり、あなたの肉体は第三者である両親によってもたらされ、肉体死に際して、第三者である両親とは係り合いのない別の次元の第三者に戻っていく。
『違いはこうだ。まず、私はある子宮から現れ、次に他の子宮へ入っていく――――しかし、私は気づいていない。私がこの誕生を受けた時、それは明らかだった。しかし今、私が去っていくのは、はっきりしない。死は誕生につながる。あなたがどこかで生まれる前、あなたはどこかで死んでいたのだ。誕生は明らかだ。しかし死について、あなたは意識していない。
今あなたは、母親と父親から生まれた。あなたは体、すなわち七十年から百年間、機能するような器官を得た。百年経つと、この装置は働かなくなる。働きを止める日は、誕生の瞬間にあらかじめ定められている。体がいつ果てるのかは、さほど重要ではない。重要なのは、体は果てるものだという点だ。誕生と共に、あなたが死ぬことについては決められている。誕生をもたらした子宮はまた、あなたに死をももたらす。あなたはそれらを、一緒に携えてきた。実際、死は誕生を与える子宮の中に潜んでいる。百年の合間があったにすぎない。
この百年のうちに、あなたは一方の端からもう一方の端への旅を完結させ、まさに正確に、あなたがやって来た次元に戻るだろう。あなたの体の死は、誕生の際に他者から受け取られる。だから死もまた、他者からやってくる。だから生まれるのもあなたではなく、死ぬのもあなたではない。
誕生の際には媒体があったが、死に際しても、同じ状況があてはまるだろう。第五のスピリチュアル体から、第六のコズミック体に入って、初めてあなたは生まれる。あなたは自ら生まれる。あなたの誕生は、子宮なしのものだ。しかし同時に、次は自らの死があなたを待っている。
子宮なしの死が、あなたを待っている。この誕生が、あなたをどこへ連れていくにしろ、そこからは死が、遥か遠くへとあなたを連れていくだろう。誕生はブラフマンに、死はニルヴァーナへとあなたを導く。』
(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P362-363から引用)
更にOSHOバグワンの死のプロセスの説明に、『死ぬときは、まず肉体だけが落ち、残りの六つの身体は自分と共にとどまる。第五の身体に到達すると第二身体から第四身体の3身体が落ちる。ここで第五、第六、第七身体が残る。
更に第七身体に入るとそれまでの六つの身体はすべて滅びる』(出所:奇跡の探究2/和尚/市民出版社P470-471)
以上のOSHOバグワンの説明によれば、
第五身体から第六身体へのところで個が死ぬ。ここで全体として再誕する。全体とは他者全体のことである。
人は、父母という他人から肉体を得て今生を始め、MAX120年くらいの肉体を喪失する時に、他人の総体であるアートマン第六身体に戻っていく。
このメカニズムを前提にして、OSHOバグワンは、死の世界における個の次元であるエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体をすっとばして、人はいきなり『子宮なしの死』である第六身体ブラフマンに誕生し、死なるニルヴァーナに進むという説明とする。
ところが、第六身体からは時間のない今ここだけの世界で、個もない世界。だから第五身体から第六身体への移行は、個なる魂がそのまま第六身体に入るというイメージはわかりにくい。とてもシンボリックな表現だが、第五身体から第六身体への移行は自分という個のすべてを捨てさせられるからである。
そういう意味において、
この描写はチベット死者の書で死のプロセス冒頭で原初の光を見る体験に連動するものだと考えられる。死の最初のステージには個のステージはなく、全体たるアートマンのステージが優先して出てくるというチベット死者の書の描写は、肉体や個別性を残したボディと全く異なる次元のことを述べていることに注意して読むべきだろう。