◎自然の法に従う尸解など
(2018-10-12)
出口王仁三郎が尸解を論じている。
『虎、狼、猪、熊、狐、狸など野山に住む獣類、さては鳩、鳶、烏、雀の鳥類に至るまで、死骸と云ふものを此土にのこさぬ。
人に殺された場合は別だが、自然に死んだこれ等の屍と云ふものを誰も見た事があるまい、此等の動物は一定の時が来ると、尸解の法によつて体をもつて霊界に入つて仕舞ふのである。
これ皆神様の御恵によるもので彼等が死して醜骸を此地上に残す時、誰も葬式をして埋めてやるものが無いからの事である。それに彼等には欲と云ふものがないし、執着心も何もないので、実際綺麗なものである。
虎狼の欲といふ諺があるけれど、彼等は腹が膨れてさへ居れば、決して他を犯さうとはしない。
人間の欲となると恐ろしいもので、其日の糧どころか、一年中食べても、一生涯食べても余りある程のものを貯へながら、まだ其上他のものを自分のものにしたいと云ふ欲望の絶ゆる時がないのだから、おそろしい執着だ。
家畜は死骸を此土に曝すが、それは人間が始末をしてやるから、尸解の法に依らないのである。人間も同様お互に始末を仕やう事が出来るから尸解の法によらないのである。』
(出口王仁三郎随筆集水鏡の尸解から引用)
さらにこれを前提に、
『加藤『尸解(しけ)の法についてお伺い致したいのですが』
出口氏『ガット虫が蝉になるのもみな尸解の法である。
ガット虫に羽が生えて変わるだろう。麦の中から虫が発生(わ)いて蝶になる。これもみな尸解の法だ。天狗になったとかいうのは人間のうち尸解の法によってなったのだ。
鳥などは自然に従っているから何でも出来る』
加藤『尸解の法によって霊界に入る以外に霊界に入ればそれらの血液はどうなるのですか』
出口氏『鶏なんかは大抵食うようになっているから、殺された時に霊が抜ける。それが霊身を作って、鶏なら鶏になっている。
人間の体は死ぬと血が黒うなってしまう。霊のある間は霊が流通させているけれども、霊が抜けてしまうと肉体の中に入ってしまう。
滓(かす)が残っているが血が血管の中を廻っているのは霊が動いているからで、人間の血は霊なのだ。
霊が入っているから赤い。霊がなくなってしまったら、水分が体内へ吸収されてわからんようになる。
静脈血は初めから黒いが、本当に良いやつは融和してしまう。水気が屍体と一緒になってしまうのだ。血液は元通りあるのだけれども、屍体の中に一緒になってしまうので分からなくなってしまうのだ。霊というものは形のないものだから、形のないものが血液の中を廻っているから赤いのだ』』
(『出口王仁三郎全集第二巻第四篇P370-371から引用(国会図書館デジタルアーカイブにあり))
以上は、動物も含めて普通に屍解があることを指摘している。血液は霊だとは言っているが、七つの身体論でいえば、血液といえども物質レベルだから、血液についてはOSHOバグワンはほとんど気にしていない。チベット死者の書でも血液については、体液の流出として描かれてはいるが、その程度の言及だったように思う。
出口王仁三郎も霊は形がないとして物質レベルではないことを前提にしている。
覚醒から尸解に至るロジックは、通常の社会通念の外側にある。そして尸解も輪廻転生の一シーンである。
動物は、自然において屍解しようとして屍解するわけでなく、自ずと屍解する。人間はさる境地にあるものだけが、屍解が可能となる。