◎垂直な背骨
黙照枯坐といえば、日本では只管打坐の代名詞だと思われており、日本ではどうしても禅宗の座り方の一種みたいに思われている。
臨済宗の白隠は、黙照枯坐を批判したが、一方黙照枯坐の方では身心脱落という大悟徹底した境地がある。たまたま黙照枯坐で身心脱落というメソッドが中国から日本に伝承されたかに見えるが、それは達磨以降の流れに限定したものでなく、源流はインドにも見える。
バガバッド・ギータから。
『ヨーギは人里離れたところに隠遁して孤独な生活を送り、心と肉体を克服し、願望と執着を捨てて常にアートマンを瞑想しなければならない。
ヨーギの坐る場所は堅固で、高からず低からず、清潔な場所でなければならない。まず神聖な草を敷き、次に鹿の革を置き、その上に布を敷かねばならない(註3)。
ここに坐り感覚と空想をおさえて心を一点に集中させる。このように瞑想すればヨーギの心は清らかになる。
胴・頭・頸を垂直にして不動の姿勢をとり、鼻頭を凝視して内観する。眼を四方に動かさない。』
(バガヴァッド・ギータ/ヴェーダーンタ文庫P85から引用)
いろいろ書いてあるが、不動にして垂直。
道元の普勧坐禅儀では、もう少し具体的。
1.結跏趺坐は、まず右の足を左の腿(もも)の上に置き、次に左の足を右の腿の上へのせる。半跏趺坐は左の足を右の腿の上へのせるだけ。
2.衣服はゆったりしたものできちんとしたもの。
3.右の手を左の足の上にのせ、左の手を右の手のひらの中に置き、両方の親指の先をつける。
4.左右に傾かず、前後に片寄らず、正身端坐。
耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるように。
5.舌は上の歯茎につけ、唇と歯を着ける。
6.目は開いておく。
7.ポスチャーも固まり、呼吸も整う。
8.思念が起こったら、気をつけて相手にしない。こうして『久々にして縁を忘ずれば、自ずから一片となる』
わかりにくいかもしれないが、上記の4が、背骨を垂直にするということ。
心理状態が座る姿勢を決めるという冥想ならではの発想があることを考えると、背骨を垂直にするとは、実はそれ以上の意味があるように思う。
黙照枯坐での垂直な背骨は、宗派によらず起こってきたし、只管打坐でのように連綿と繰り返し行われてもきた。
黙照枯坐といえば、日本では只管打坐の代名詞だと思われており、日本ではどうしても禅宗の座り方の一種みたいに思われている。
臨済宗の白隠は、黙照枯坐を批判したが、一方黙照枯坐の方では身心脱落という大悟徹底した境地がある。たまたま黙照枯坐で身心脱落というメソッドが中国から日本に伝承されたかに見えるが、それは達磨以降の流れに限定したものでなく、源流はインドにも見える。
バガバッド・ギータから。
『ヨーギは人里離れたところに隠遁して孤独な生活を送り、心と肉体を克服し、願望と執着を捨てて常にアートマンを瞑想しなければならない。
ヨーギの坐る場所は堅固で、高からず低からず、清潔な場所でなければならない。まず神聖な草を敷き、次に鹿の革を置き、その上に布を敷かねばならない(註3)。
ここに坐り感覚と空想をおさえて心を一点に集中させる。このように瞑想すればヨーギの心は清らかになる。
胴・頭・頸を垂直にして不動の姿勢をとり、鼻頭を凝視して内観する。眼を四方に動かさない。』
(バガヴァッド・ギータ/ヴェーダーンタ文庫P85から引用)
いろいろ書いてあるが、不動にして垂直。
道元の普勧坐禅儀では、もう少し具体的。
1.結跏趺坐は、まず右の足を左の腿(もも)の上に置き、次に左の足を右の腿の上へのせる。半跏趺坐は左の足を右の腿の上へのせるだけ。
2.衣服はゆったりしたものできちんとしたもの。
3.右の手を左の足の上にのせ、左の手を右の手のひらの中に置き、両方の親指の先をつける。
4.左右に傾かず、前後に片寄らず、正身端坐。
耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるように。
5.舌は上の歯茎につけ、唇と歯を着ける。
6.目は開いておく。
7.ポスチャーも固まり、呼吸も整う。
8.思念が起こったら、気をつけて相手にしない。こうして『久々にして縁を忘ずれば、自ずから一片となる』
わかりにくいかもしれないが、上記の4が、背骨を垂直にするということ。
心理状態が座る姿勢を決めるという冥想ならではの発想があることを考えると、背骨を垂直にするとは、実はそれ以上の意味があるように思う。
黙照枯坐での垂直な背骨は、宗派によらず起こってきたし、只管打坐でのように連綿と繰り返し行われてもきた。