◎今生である葉と来世の葉
ここでは、個から全体へ、そして全体から別の個へという見方の一つの敷衍を語る。
OSHOバグワンは、インドでは、輪廻転生が宗教家の布教の方便として使われてきたと見る。
曰く、ヒンドゥー教徒は神と魂を信じている、ジャイナ教とは神を信じず魂だけを信じている、仏教徒は、神も魂も信じていない。けれども三教徒とも輪廻は信じる。
ヒンドゥー教、ジャイナ教のように魂があるのが前提となっていれば、人は死ぬと肉体が地上に残され、魂はやがて別の肉体に入るという説明が理解しやすい。仏教は魂は認めないが、何だか生の連続である輪廻はあるとしている、連続体であるが前のと同じではないのが転生していると。
こうしたインド三宗教の下では、いつでもいくらでも何転生でもやり直しがきくので、インドでは、時間にルーズであり、人々を無気力にする結果となった。
この教訓を踏まえて、逆にキリスト教では、人生は一度きり、時間がないと急き立てるのを方便とした。その結果西欧近代文明下では、時間が過剰に意識され、せかせか性急に1/100秒を争って日々活動するようになった。
人生は一回きり、時間を無駄にしてはならない、とは、事実上輪廻がないことを前提にする言い方だが、ダンテス・ダイジも人生一回きりであるとする。そこで転生して出て来る人物は今生のものと100%同じものではない。同じ幹から複数の似た葉が出るように、今生である葉と来世の葉はとても似ているが、全く同じではないと。
これはOSHOバグワンが、前に挙げた釈迦(仏教)の見解にほぼ同意しているのだが、それと似た見解である。
(参考:英知の辞典/OSHO/メルクマール社P560-566)