◎一切が静かで闇に隠れる真夜中
エウゲニス・フィラレテスの宝捜しメモの続き。
『「この山へは、最も長く暗い日の夜がきたときに)行くがよい。まず祈りにより覚悟を固めよ。そしてひたすら山へ通じる道を求めること。
しかしその道がどこにあるのか誰にも尋ねてはならぬ。『指導霊』にのみ従うのだ。彼は自ら案内を申し出、途中で貴兄を出迎えるであろう。だが彼と懇意にしてはならぬ。この『指導霊』が汝を山へ連れてくるのは、一切が静かで闇に隠れる真夜中である。そこで起こるできごとに恐れをなしてしりごみすることのないよう、決然たる勇気をもって身を固めることが必要である。剣など入用でない。その他の武具もしかりである。ただ精魂込めて神にすがれ。」
(象徴哲学大系 4 錬金術 マンリー・P・ホール/著 人文書院p68から引用)
霊界の魔法の山と言っているが、霊界ではないことは、ジェイド・タブレットの読者なら知っている。この段階は、禅の十牛図で言えば、霊的探求は始めたが、牛のしっぽもまだ見つけられない初心の段階。十牛図第二見跡以前の段階。
ひたすら山へ通じる道を捜し回れば、いつか『最も長く暗い日の夜』がやってきて、山道への第一歩を進めることができる。
『指導霊』、これは正師のこと。正師は肉体を持っている人間であることもあるが、肉体のない霊的存在であることもままある。実例としては、呂洞賓の師の鍾離権、ダンテス・ダイジのクンダリーニ・ヨーガの師のババジなど。そういうことは垂直の道ではままある。
なお、人間には正守護神または守護天使というのが、一生涯ついてまわっているが、『指導霊』のことではない。
『指導霊』がいつ、どのように見つけられるかには、言及はない。
『指導霊』があなたを山へ連れてくるのは、あなたに見どころがあるからであって、驕らず虚心坦懐に冥想修行を進めて行けば『一切が静かで闇に隠れる真夜中』のタイミングがあり、山に進めるが、そこでは、驚くべきこと、恐るべきことなどが起こるが、びびりながら『精魂込めて神にすが』るしかあるまい。
『一切が静かで闇に隠れる真夜中』とは、言い得て妙な表現である。想念や思考の止まる隙間。