アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

禅の究極と西方浄土・極楽

2023-01-04 03:59:23 | 覚醒のアーキテクチャー

◎目標の相違とプロセスもテクニックなぞもないこと

 

禅の究極は、一円相の涅槃。念仏の究極は、西方浄土・極楽。

 

禅の十牛図には、西方浄土・極楽はない。一方念仏側は、「死後に」最初に浄土の辺地に往生してそこで修行してよりよい浄土に移転を狙うという流れ。浄土が究極との位置づけとなろう。

 

禅の六祖恵能が、西方浄土と禅の究極について以下のように説明している。※長官とは韻州刺史のこと。

『長官はさらにたずねていう、「わたくしは、いつも出家在家の修行者が、阿弥陀仏の名をとなえて、西方浄土に生れようと祈っているのを知っています。どうか先生、本当にそこに生れることができるのかどうか、 わたくしの疑問をといていただきたいのです。」

 

先生はいう、「長官よ 、気をつけて聞きなさい、わたしは君にいってきかせよう。釈尊は、シュラーバスティの町においでになったとき、西方浄土の方便説法をなされたのである。『経典』ははっきりと『浄土はここから遠くない』といっている。その様相をとりあげ、距離を言うなら、十万八千という数がでるのである。つまり、われら自身の十種の悪業や八種の罪について、それを遠いと言うのである。

遠いと言うのは、そうした素質の劣ったもの のためであり、近い(遠くない)と言うのは、すぐれた智者のためである。

 

人間には二つの種類があるが、おしえは二通りあるわけでない。それを見失うかめざめるかに違いがあり、めざめ方に遅い早いの別があるのである。真理を見失ったものは、念仏してそこに生れようとするが、目ざめたものは、自分で心をきよめる。そういうわけで、仏陀は言われ る、『各自の心がきよらかになるとき、すぐに仏陀の国はきよらかになる』と。

 

長官よ、東の国の人も、もし心がきよらかであれば、そのままなんの罪もない。西の国の人だって、心がきよらかでないならば、やっ ぱりあやまちがあるのである。東の国の人は罪をつくれば念仏して西の国に生れようとねがうが、西の国の人が罪をつくったら、念仏してどんな国に生れようとねがうのか。

 

愚かなものは自己自身を完成せず、わが身の中なる浄土に気づかないで、東を望み西をもとめるけれども、目ざめた人はどこにいてもおなじことである。それで、仏陀はいわれる、 『自分のおる場所のままで、いつも安楽浄土である』と。』

(世界古典文学全集36A 禅家語録1 六祖壇経P99-100から引用)

 

つまり究極とは各自の心が清らかになって、自分が、自分のおる場所のままで、いつも安楽浄土になることである(所住の処に随って常に安楽なり)。だが、素質の劣った人向けには仮に西方浄土が究極だと説明しているだけのこと。つまり究極は、西方ではなく自分のいる場所、自性、本来の自己であるということである

 

禅では本来の自己と言えば、生きているうちのことであり、西方浄土が死後を指すこととの相違は気にしている風でもない。

 

七つの身体で言えば、天国極楽は、滅びるものだから、第五身体コーザル体以下のものと考えられる。地獄も第五身体コーザル体以下と考えられる。

なお究極とは第七身体のニルヴァーナ。

 

チベット死者の書では、最初のチカイ・バルド(中有)で、原初の光または第二のクリヤーライトに出会えるチャンスがあり、これに成功すればニルヴァーナに至ることができる。しかしこれを取り逃がすと、地獄と極楽が混在するチョエニ・バルドに入って行く。つまりチベット死者の書では、窮極とはニルヴァーナであり、地獄と極楽は二義的な位置づけなのだ。

またチベット死者の書では、死のプロセスを描写しているが、チベット密教の主要な瞑想修行が、原初の光である母の光明と修行で後天的に得られる子の光明の合体であるから、生存中における大悟覚醒を意識している。つまりチベット死者の書は、生者の修行のためのガイドブックであって、死後の極楽入りを目的とする部分は記載されてはいるが、最優先は、生者のニルヴァーナとなっていると見ることができる。

 

このように、冥想修行の究極の目的は、心の安定でも、気分を転換することでも、天国極楽を目指すことでもなく、神、仏、ニルヴァーナを目指すこと。

 

だからといって、念仏をしてニルヴァーナに到達できないのかと言えば、そんなことはなく、念仏でニルヴァーナに到達した人を妙好人に見ることができる。こういうのを手段と結果の不確実性という。

 

またそういう事象を指して、プロセスもテクニックなぞもないという。

 

『プロセスもテクニックなぞもないことを体現している

あらゆるあなたたちに捧げる』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジの巻頭言)

 

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