天寶五年[746]
楊貴妃への玄宗の寵愛は深く、力士は貴妃ののる馬の轡をとり案内する状況でした。
ある時、貴妃が玄宗に逆らって怒りをかい、兄銛の家に送り返される事がありました。
ところが玄宗のほうが貴妃ロスに苦しみ、力士は玄宗の意を酌んで迎えに行きました。
天寶五年七月
李林甫は疑獄を起こし、政敵である李適之や皇太子妃の兄である韋堅を陥れました。そして皇太子を廃位しようと企みましたが、力士は張垍や張均[說の子]とともに太子を保護したため及びませんでした。
天寶七年[748]四月
左監門大將軍知内侍省事力士は驃騎大将軍に昇進しました。その威勢は強く、西京に寶壽寺を作るとその鐘をつくという名目で莫大な金があつまりました。
ただ応接がいつも丁寧で、驕慢な態度をしめさなったので玄宗から親任され、士大夫に憎まれることはありませんでした。
天寶九年[750]二月
また玄宗と楊貴妃との痴話げんかが起こり実家に帰されました。また貴妃ロスを起こす玄宗のために力士は使いして、貴妃をつれ帰りました。
天寶十一年[752]四月
李林甫派の戸部侍郎兼御史大夫京光尹王珙/鉷の弟銲・刑縡がなぜか蜂起し皇城を攻めた時、力士は飛龍禁軍四百を率いてこれを討った。よくわからない事件である。
天寶十一年十二月
河西隴右節度の哥舒翰と范陽平盧節度の安祿山は反目しあっていたので、玄宗は和解させようとして力士に宴を開かせとりもたせたが、喧嘩別れにおわった。
天寶十三年[754]三月
玄宗は安禄山を宰相に登用しようとしていたが、楊國忠は反対したためならなかった。力士は幽州に帰る禄山を送ったが、その不満を感じ取った。
天寶十三載六月
楊國忠麾下の李宓が雲南蠻に大敗したが玄宗はなにも知らなかった。
玄宗は貴妃に耽溺し「我は老いた、政事は宰相に、軍事は諸将に任せてなにも心配なことはない」と言った。
さすがに力士は呆れて「雲南で軍は大敗しました。諸将は大軍を擁しています、一旦事あれば陛下はなにに頼るつもりですか」と諫めたが、耄碌した玄宗は「なにも言うな、わかっているわい」と言うのみであった。