正月成徳節度使王元逵が亡くなり、子の紹鼎が継承した。成徳では王庭湊の家系が後梁まで継承されていった。
七月南部の軍乱の端緒となる浙東での軍乱が起こり、観察使李訥が追放された。
これは中央への餘や官僚の収奪のため、緊急性が低い江南諸軍の兵士達の待遇切り下げが続いたためである。
淮南節度使杜悰は饑饉にもかかわらず遊宴を重ねていたため、七月左遷された。
七月南部の軍乱の端緒となる浙東での軍乱が起こり、観察使李訥が追放された。
これは中央への餘や官僚の収奪のため、緊急性が低い江南諸軍の兵士達の待遇切り下げが続いたためである。
淮南節度使杜悰は饑饉にもかかわらず遊宴を重ねていたため、七月左遷された。