唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

長慶三年(823年.弘仁十三年)

2006-11-04 20:13:32 | Weblog
宰相の姑息と穆宗の無能が周知の事実となり、河北の藩鎭は独立傾向を強めた。
特に成徳の王庭湊は反抗的であった。
朝廷の実権は李逢吉が握り、その党の牛僧孺を引き立て、牛李の党争[李は李裕、牛派は進士派、李派は旧貴族派とされているが区分は明確でない]の端尾を作っていった。
穆宗は憲宗と同様に仙薬狂いで病となり、官僚達はお互いに争いあう状況になった。
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長慶二年(822年.弘仁十二年)

2006-11-04 08:55:42 | Weblog
魏博軍は自潰して退却し節度使田布は自殺した。
その將史憲誠は自立して魏博も失われることになり、河北三鎭は元に戻ってしまった。
さらに二月徐州の武寧軍では王智興が自立して、徐泗濠三州も失われた。
そして三月汴州宣武軍も軍乱を起こし、李かい[うかんむりに介]が自立した。さすがに朝廷は忠武李光顔や義成韓充らが包囲攻撃し、八月これを誅殺し回復した。
九月鎭海軍や州でも軍乱が発生した。
これらは無能な皇帝と無策な宰相によるものであり、憲宗による再興の努力を失わさせるものであった。
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