宰相の姑息と穆宗の無能が周知の事実となり、河北の藩鎭は独立傾向を強めた。
特に成徳の王庭湊は反抗的であった。
朝廷の実権は李逢吉が握り、その党の牛僧孺を引き立て、牛李の党争[李は李裕、牛派は進士派、李派は旧貴族派とされているが区分は明確でない]の端尾を作っていった。
穆宗は憲宗と同様に仙薬狂いで病となり、官僚達はお互いに争いあう状況になった。
特に成徳の王庭湊は反抗的であった。
朝廷の実権は李逢吉が握り、その党の牛僧孺を引き立て、牛李の党争[李は李裕、牛派は進士派、李派は旧貴族派とされているが区分は明確でない]の端尾を作っていった。
穆宗は憲宗と同様に仙薬狂いで病となり、官僚達はお互いに争いあう状況になった。