正月高駢は西川に入り兵備を整え、雲南蠻を撃退した。
四月浙西観察使では將王郢が戦功を認められなかったことで蜂起し、衆数万を集め大乱となった。
西川では咸通11年の雲南蠻の時、兵備を整えるため高給で募集した突將達が専横を極めていたため、高駢は六月家族を含め数千人を誅殺した。
六月王仙芝の乱は拡大し、天平節度使薛崇は敗北し、塩賊黄巣もまた蜂起した。
同じく六月幽州節度使張公素は暴戻のため逐われ、李茂勳[回紇人]が節度使となった。
七月蝗が大量発生し關中地方は不作となったが、京兆尹楊知至は蝗が荊棘に抱きつき自滅したというふざけた報告を出し、宰相達もそれを認めて祝った。
僖宗は低脳で遊宴を好み、政治は宦官とそれに結託した宰相にすべて任せていた。
十月昭義軍乱、節度使高が逐われた。
十二月平盧節度使宋威が王仙芝討伐の全権を命ぜられた。
四月浙西観察使では將王郢が戦功を認められなかったことで蜂起し、衆数万を集め大乱となった。
西川では咸通11年の雲南蠻の時、兵備を整えるため高給で募集した突將達が専横を極めていたため、高駢は六月家族を含め数千人を誅殺した。
六月王仙芝の乱は拡大し、天平節度使薛崇は敗北し、塩賊黄巣もまた蜂起した。
同じく六月幽州節度使張公素は暴戻のため逐われ、李茂勳[回紇人]が節度使となった。
七月蝗が大量発生し關中地方は不作となったが、京兆尹楊知至は蝗が荊棘に抱きつき自滅したというふざけた報告を出し、宰相達もそれを認めて祝った。
僖宗は低脳で遊宴を好み、政治は宦官とそれに結託した宰相にすべて任せていた。
十月昭義軍乱、節度使高が逐われた。
十二月平盧節度使宋威が王仙芝討伐の全権を命ぜられた。