唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

気の毒な安禄山 その1 反するも反せざるも

2013-08-28 20:51:58 | Weblog
正史の中では暴虐非道な反逆者安禄山であるが、冷静に細かく読めば
その立場には同情せざるを得ない。彼の生きる道は謀叛しかなかったのだ。
最悪の人物が玄宗皇帝である。
彼は自己中のかたまりで、節度がないどうしようもない男である。
まず彼が功績をあげた韋后の変、そして太平公主の変。
多くの功績ある臣下に惜しみなく恩賞を与えるが、まもなく左遷・誅殺に
より名を遂げたまま卒したものは極めて少ない。
そして突厥や吐蕃・西域での軍功があった張守珪・王忠嗣・信安王禕など
いずれも強大な軍權と地位・恩賞を与え、やがて失脚させる。
その政策の遂行者であつた宰相李林甫ですら、没後すぐ罪せられ、子孫は
流される。
つまり玄宗に取り立てられると言うことは将来的には地獄行きというこ
とであった。
平盧・幽州・河東節度使を兼ねた安禄山、隴右・河西を兼ねた哥舒翰が
次の標的であったのだ。
安禄山にしてみれば「反せざるも誅、反するも誅」という追いつめられた
立場で有り、宰相楊國忠は安禄山から陥れる策動を続けていたのだ。
正直なところ安禄山には反乱の成算がなかったと思う。
彼にはまともな軍師がおらず、物資の蓄積も少ない。短期決戦にでなけ
れば敗北は必至であった。確かに軍備は巨大ではあるが、全唐軍からい
えば三分の一程度である。しかも唐は巨大な動員力を持っており財源も
豊かである。
老齢が迫り、体調も悪化していた安禄山としては、失脚して惨めな死を
迎えたくないという思いであったと思われる。
陰険な玄宗皇帝に煽て上げられ、頂点に立ってしまった男の悲劇である。
同じような立場として後年の僕固懷恩や李懷光などもあるが、全て蕃人
であるのは哀れである。陰険な中国人(本道は鮮卑人かもしけないが)
にいいようにあしらわれ・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする