安禄山の反乱第一段階は成功と失敗半々であった。
急速に南下し東都を制圧したことは大成功である。
失敗とは河東[太原府]を確保しなかったことである。
本来自分の管轄の河東であるから、まとまった兵力を派遣すれば確保できはずだ。
現に太原尹の楊光翽を捕らえている。
ところがなぜかここを放棄して唐朝に奪回されている。
そのために河北の顔杲卿や眞卿等の起義により朔方軍の侵攻を招いている。
第二段階は成功のように見えて失敗である。
成功とは潼関から長安へ主力軍を向け、哥舒翰を破り京師を陥落させた。
しかし玄宗は劍南に逃れ、肅宗は朔方軍に拠り挟撃の体制を作り。
結果として京師に大軍が拘束されてしまった。
河北の乱にもよって兵力が尽き、南方戦線に兵をさけなかった。
唐朝の経済基盤である淮南・浙江地方は無防備状態にあったのだから
潼関にある程度の兵力を置き対峙させるか
京師を早期に放棄して東都に戻り、淮南・浙江地方を制圧すべきであったのだ。
そうすれば劍南・朔方の唐軍は立ち枯れの状態になり
豊富な財源を得た安禄山帝国は日に日に強力となったはずである。
ところが軍師もなく、蛮人出身の軍人でしかない禄山にはそれが見えなかった。
京師という無意味な戦果だけを重要視し、その基盤がどこにあるかわからなかったのだ。
それは次の安慶緒・史思明についても同じである。
淮南・浙江地方がどれくらい無防備であったかというと
無頼の平盧軍将劉展が5千程度の部下とともに南下するだけで制圧できた事が示している。
そしてそれを鎮圧したのももうひとりの平盧軍将田神功の数千の兵である。
急速に南下し東都を制圧したことは大成功である。
失敗とは河東[太原府]を確保しなかったことである。
本来自分の管轄の河東であるから、まとまった兵力を派遣すれば確保できはずだ。
現に太原尹の楊光翽を捕らえている。
ところがなぜかここを放棄して唐朝に奪回されている。
そのために河北の顔杲卿や眞卿等の起義により朔方軍の侵攻を招いている。
第二段階は成功のように見えて失敗である。
成功とは潼関から長安へ主力軍を向け、哥舒翰を破り京師を陥落させた。
しかし玄宗は劍南に逃れ、肅宗は朔方軍に拠り挟撃の体制を作り。
結果として京師に大軍が拘束されてしまった。
河北の乱にもよって兵力が尽き、南方戦線に兵をさけなかった。
唐朝の経済基盤である淮南・浙江地方は無防備状態にあったのだから
潼関にある程度の兵力を置き対峙させるか
京師を早期に放棄して東都に戻り、淮南・浙江地方を制圧すべきであったのだ。
そうすれば劍南・朔方の唐軍は立ち枯れの状態になり
豊富な財源を得た安禄山帝国は日に日に強力となったはずである。
ところが軍師もなく、蛮人出身の軍人でしかない禄山にはそれが見えなかった。
京師という無意味な戦果だけを重要視し、その基盤がどこにあるかわからなかったのだ。
それは次の安慶緒・史思明についても同じである。
淮南・浙江地方がどれくらい無防備であったかというと
無頼の平盧軍将劉展が5千程度の部下とともに南下するだけで制圧できた事が示している。
そしてそれを鎮圧したのももうひとりの平盧軍将田神功の数千の兵である。