崇文は渤海人であり營州平盧軍士となり、その南下後は神策軍に入り、韓全義に仕え、
貞元5年には吐蕃を佛堂原に大破した。全義入朝後は長武城使となり、練兵に励んだ。
永貞元年、西川節度使韋皐の没後、その幕僚である劉闢が自立した。
新たに即位した若い憲宗皇帝は、宗皇帝のような姑息な藩鎮慰撫策(通常は内部昇格させていた)
を取らず、断然これを征討することとして將を選んだ。多くの上將のなかから選ばれたのは、宰相杜
黄裳が推薦した無名な崇文であった。
崇文は出師の命を受けるや、即日全軍を上げて進発し、興元に入り、劉闢が制圧した東川節度府[梓
州]を奪還し、東川節度使となった。
そして元和元年には西川に入り、諸城を陥し劉闢を捕らえて平定することに成功した。
その後崇文は西川節度使に任ぜられたが、文盲であることから、大藩である西川節度の複雑な行政に
音を上げて早期の交替を求めた。
元和二年。対吐蕃防衛の最前線である使相を兼ねた邠寧節度使.京西都統に転任した。
その場合も入京して、皇帝に拝謁する礼式を厭い直接の赴任を求めて認められた。
そして三年間、大いに兵備を整えて辺境を防衛し卒した。64才。贈司徒。
彼は徹底して武人であり、政略に関与することはなかった。
子は承簡[兗海・義成・邠寧節度使]、子孫に駢[安南・天平・西川・荊南・鎭海・淮南]がいる。
貞元5年には吐蕃を佛堂原に大破した。全義入朝後は長武城使となり、練兵に励んだ。
永貞元年、西川節度使韋皐の没後、その幕僚である劉闢が自立した。
新たに即位した若い憲宗皇帝は、宗皇帝のような姑息な藩鎮慰撫策(通常は内部昇格させていた)
を取らず、断然これを征討することとして將を選んだ。多くの上將のなかから選ばれたのは、宰相杜
黄裳が推薦した無名な崇文であった。
崇文は出師の命を受けるや、即日全軍を上げて進発し、興元に入り、劉闢が制圧した東川節度府[梓
州]を奪還し、東川節度使となった。
そして元和元年には西川に入り、諸城を陥し劉闢を捕らえて平定することに成功した。
その後崇文は西川節度使に任ぜられたが、文盲であることから、大藩である西川節度の複雑な行政に
音を上げて早期の交替を求めた。
元和二年。対吐蕃防衛の最前線である使相を兼ねた邠寧節度使.京西都統に転任した。
その場合も入京して、皇帝に拝謁する礼式を厭い直接の赴任を求めて認められた。
そして三年間、大いに兵備を整えて辺境を防衛し卒した。64才。贈司徒。
彼は徹底して武人であり、政略に関与することはなかった。
子は承簡[兗海・義成・邠寧節度使]、子孫に駢[安南・天平・西川・荊南・鎭海・淮南]がいる。