唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

安史の乱始末 その1

2017-12-29 21:31:42 | Weblog
回紇の援軍と副元帥僕固懷恩によって、安史の乱の最後である史朝義が誅滅されたのは廣徳元年正月である。
その後懷恩によって旧史朝義の降将達に河北が与えられ、河北三鎭の害が唐朝統治の癌となった。
降将に河北が与えられた理由としては、従来はうち続く戦乱による唐朝の疲弊により、完全な討伐が困難であったとされている。
しかし六降将[李懷仙・張忠志・田承嗣・令狐彰・薛嵩・張獻誠]が強力であったわけではない。まとまった兵力を維持していたのは幽州の李懷仙ぐらいで、あとは張忠志がある程度の騎兵軍を維持していただけで、令狐彰・薛嵩・張獻誠にいたっては史朝義等に任命されて領域を統治していただけの存在である。強烈な叛意を秘めていた田承嗣は弱体な敗残軍をかろうじて維持しいるだけであった。
だから本当は李懷仙と張忠志にある程度の待遇を与えれば十分であったわけだ。
懷恩軍のほうはといえば、回紇軍・旧平盧軍[田神玉.候希逸.董泰=李忠臣]・朔方軍[郭子儀が影響力を持つ]・李光弼軍の一部などの連合体であり、先勝と共に解体は始めていたがまだまだ強力であった。
しかし問題は肅宗・代宗という宦官の傀儡である意志薄弱で無定見な皇帝達と、李輔國・程元振など宦官の功将への根強い猜疑心であった。
すでに功将來瑱や李懷譲は讒言により抹殺され。郭子儀は失脚閉塞し、李光弼は河南で狐疑逡巡している状況であった。
懷恩もすでに宦官勢力と結託した李抱玉や辛雲京の讒言を受け立場が危うい状態にあり、到底討伐を続けられる状態にはなかったのである。
つまり懷恩としては軍事力の問題ではなく、早期に統治問題を解決し、入朝して宦官勢力と対峙しなければいけなかったわけである。
そのため現状維持の領域を降将達にばらまき、叛心が強い田承嗣も優遇して宥める必要があった。
唐朝がまともな統治能力がある皇帝でなかったための弊害である。
それでもすでに遅く、懷恩は謀叛しているとしてされ、回紇や吐蕃のもとに奔り、本意では無い叛臣となることになった。