唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河北の軍閥 その4 建中-興元の乱1 成德李惟岳・山東梁崇義

2018-07-14 14:12:32 | Weblog
大暦14年2月魏博節度使田承嗣が卒し、甥の悅が継承しました。唐朝は姑息な代宗の末期で討伐する気力はなく、悦もまた恭順を装いましたので一応継承を許されました。
また淮西節度使では李忠臣は貪殘好色で、武将の妻に手を出したりしたため族子の李希烈に逐われましたが功績が高いため入朝して宰相となり、希烈は汴州を取り上げられただけで継承を許されました。
その他幽州朱泚と滔の兄弟は唐朝に忠誠を誓い、成德李寶臣・淄青李正己は老齢?で反抗の気力はありませんでしたので平穏が保たれていました。

ところが大暦14年5月代宗が崩御し、若いやる気あふれた德宗が即位すると新政を開始し、藩鎭への圧迫を強めていきました。
そして建中2年正月成德節度使李寶臣が亡くなりました。寶臣は子の惟岳に継承させるために、邪魔になる有力諸将を除こうとしていたため、軍内には緊張感が強まっていた最中です。
魏博田悦は惟岳の継承を求めますが、德宗は認ませんので、惟岳とともに反します。

討伐軍 ○は唐朝軍
幽州節度使朱滔
淄青節度使李正己
○永平軍節度使李勉
○朔方節度使李懷光
○神策都戰候李晟
○河東節度使馬燧
○昭義軍節度使李抱真
○河陽節度副使李芃

反乱軍
成德 李惟岳
魏博節度使田悦

同時に山東節度使梁崇義も反しました。山東は安史時に何度も反乱を起こしましたが、來瑱がうまく鎮撫して押さえました。ところが宦官勢力は瑱を誣告して陥れ殺しました。それに憤慨した武将崇義が自立し、事ごとに反抗していましたが、代宗はただ慰撫していました。崇義も德宗になって居づらくなり孤立した状態を懼れて魏博・成德に連動したのです。德宗は淮西李希烈に討伐を命じました。

討伐軍
淮西節度使李希烈
劍南西川節度使張延賞
東川節度使王叔邕
山南東道節度使賈耽
荊南節度使李昌巙
淮南節度使陳少游

6月に討伐軍[希烈]が始動し、8月に包囲攻撃が始まりました。驍將李希烈は猛烈に攻撃してその月のうちに崇義を敗死させました。希烈は山東を併合したい希望でしたが、德宗は許さず使相の地位を与えただけであり、希烈は憤懣を抱きました。

一方、7月魏博・成德征討軍は魏博田悦を臨洺に大破しました。悦は勇将ですが戦闘には弱いのです。
まずいことに淄青李正己がこの月に亡くなり、子の納が自立しました。当然德宗はこれを認めることはできず包囲網が崩れていくことになります。

8月幽州朱滔は南下して成德を攻めます。成德の勇将易州刺史張孝忠はこれに降り、唐朝は孝忠を成德節度使とします。

10月淄青の正己之從父兄の徐州刺史李洧が降ります。魏博・淄青軍はこれを攻撃しますが敗北します。

李納討伐軍
宣武節度使劉洽
神策都知兵馬使曲環
滑州刺史襄平李澄
朔方大將唐朝臣
淮南節度使陳少游
そして淮西李希烈も動員される予定です。

3年正月 討伐軍は洹水に魏博軍を大破し、田悦は魏州に逃げ帰ります。

成德[康日知.楊榮國.楊政義]や淄青[李長卿・李再春・李士真]の諸将は次々と投降します。決定的に唐朝軍は優勢となっていきます。

閏正月、成德將王武俊は、李惟岳を襲撃して殺して降ります。

これによって成德の乱は収束し、孤立籠城する魏博田悦と、多数の部下に背かれた淄青李納の立場は風前の灯火になり、唐朝の覇権が確立するかに見えました。
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