唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

河北の軍閥 その2 田承嗣の乱1

2018-07-09 21:53:53 | Weblog
大暦8年正月、河北軍閥の一員相衛邢洺貝磁六州節度使薛嵩が卒しました。父が唐の名将であり、永平令狐彰と並んで、あまり唐朝に反抗的でなかった嵩ですが領土奉還までは考えていませんでした。嗣子の平は12才であり、継承を望みませんでしたので、叔父の崿が継承しました。ところが統制力はなく、諸将は裴志清を頭に魏博德滄瀛節度使田承嗣に傾きました。田承嗣は過大な軍備の経費に苦しみ、領土拡大を画策していたのです。
大暦10年崿は逐われて、承嗣は相衛六州を併呑しました。当然唐朝は併呑を認めません。周囲の節度使に命じて承嗣を伐たせました。
征討軍は
△成德節度使李寶臣
○淄青節度使李正己
△幽州節度留後朱滔
○淮西節度使李忠臣
○汴宋留後田神玉
◎河東節度使薛兼訓
◎澤潞節度使李抱玉
◎昭義軍節度使李承昭
◎永平軍節度使李勉です。[◎は唐朝、○は平盧、△は幽州]
つまり、承嗣は孤立していたのです。
初戦はうまくいきましたが、敗戦が続き承嗣は弱気になり講和を求め、
大暦11年2月には降伏することになりました。
征討軍の攻撃は手ぬるいものでしたが、もともと同じ仲間の幽州や
成徳、また近い関係の淄青や汴宋からの孤立に、配下の将兵は次々に
裏切って仲間に降伏しはじめたのです。
しかし
11年5月新たな事態が発生し、承嗣は再び反旗を翻すのです。

河北の軍閥とは その1

2018-07-09 19:44:19 | Weblog
従来の唐史だと、安史の乱以降河北に軍閥が形成され、一致して唐朝に反抗してその統治は及ばなかったとされる。果たして河北等の藩鎭は一致していたのだろうか。
 ①.大暦年間の魏博田承嗣の乱
 ②.建中年間の奉天の乱
 ③.元和年間の成徳王承宗の乱
 ④.長慶年間の幽州朱克融・成徳王廷湊の乱
 ⑤.太和年間の横海李同捷の乱
 ⑥.會昌年間の昭義劉稹の乱
 について主に河北三鎭の動向を中心にこれから検討してみる。

 尚①[大暦10年]以前の藩鎭の状況としては
  幽州系統 幽州[朱泚・朱滔]・魏博[田承嗣]・成徳[李寶臣]
       相衛[薛嵩]・永平[令狐彰]の五鎭が河北を分割。
  平盧系統 淄青[李正己]・汴宋[田神功]・淮西[李忠臣]の三鎭が河南
  の大部分を分割していた。
  他に山東に梁崇義がいた。
  但し、大暦8年永平の令狐彰は卒し、唐朝に領域を返上した。