德宗は梁崇義・李惟岳を誅し、田悦・李納を追いつめ覇権回復に燃えていましたが、その背後では諸鎮の憤懣がつのってきました。
①.梁崇義を討伐したのに領土的な見返りはなく、さらに李納討伐を命ぜられた淮西李希烈。彼は逐った李忠臣が任ぜられていた汴州が欲しかったのです。
②.三鎭のうちで唯一唐朝に附き、惟岳を圧迫して反乱をおこさせた幽州朱滔。彼は恩賞として隣接の深州等を求めていましたが、遠隔地の徳・棣州を与えるという内示でした。
③.旧成徳は張孝忠に易定滄節度使、康日知に深趙都団練観察使、惟岳を誅した王武俊に恒冀都団練観察使に三分割されました。武俊は自分が功績一番だと任じているのに、馬鹿にしている日知と同待遇で、孝忠より下であるのに不満でした。
田悦や李納は滅亡を免れたいため、幽州平盧の古いつながりを強調し必死に支援を求めました。
建中3年4月朱滔は王武俊[6月反]とともに反します。京師にいる兄朱泚には密使を送りますが、これは途中で捕縛されます[泚には反するつもりはありませんでした]
そして李納から唐朝に帰服していた徳棣二州を制圧し、6月には唐朝軍を連篋山に大破します。
[連篋山の戦い]
唐朝 朔方李懷光、河東馬燧、河陽李芃、昭義李抱真
反乱 幽州朱滔、成德王武俊、魏博田悅 つまり河北三鎮が共同したのです。
康日知は趙州に、張孝忠は易州に籠城して唐朝方に残ります。
そしてついに12月淮西李希烈が反し汴州[永平李勉]を攻撃します。
反乱軍の情勢としては
朱滔は河北の覇権を、李希烈は汴州・東都など河南の覇権を求めて戦意旺盛
王武俊は旧成德の、李納は旧淄青の継承を求めているだけ。
田悦はうち続く敗北によってすっかり弱体化 という所です。
唐朝軍は朔方・河東・昭義軍は強いのですが、永平の李勉[文官]は弱く、宣武[劉洽]に支えてもらっている状況です。また財政的には破綻状態でした。
①.梁崇義を討伐したのに領土的な見返りはなく、さらに李納討伐を命ぜられた淮西李希烈。彼は逐った李忠臣が任ぜられていた汴州が欲しかったのです。
②.三鎭のうちで唯一唐朝に附き、惟岳を圧迫して反乱をおこさせた幽州朱滔。彼は恩賞として隣接の深州等を求めていましたが、遠隔地の徳・棣州を与えるという内示でした。
③.旧成徳は張孝忠に易定滄節度使、康日知に深趙都団練観察使、惟岳を誅した王武俊に恒冀都団練観察使に三分割されました。武俊は自分が功績一番だと任じているのに、馬鹿にしている日知と同待遇で、孝忠より下であるのに不満でした。
田悦や李納は滅亡を免れたいため、幽州平盧の古いつながりを強調し必死に支援を求めました。
建中3年4月朱滔は王武俊[6月反]とともに反します。京師にいる兄朱泚には密使を送りますが、これは途中で捕縛されます[泚には反するつもりはありませんでした]
そして李納から唐朝に帰服していた徳棣二州を制圧し、6月には唐朝軍を連篋山に大破します。
[連篋山の戦い]
唐朝 朔方李懷光、河東馬燧、河陽李芃、昭義李抱真
反乱 幽州朱滔、成德王武俊、魏博田悅 つまり河北三鎮が共同したのです。
康日知は趙州に、張孝忠は易州に籠城して唐朝方に残ります。
そしてついに12月淮西李希烈が反し汴州[永平李勉]を攻撃します。
反乱軍の情勢としては
朱滔は河北の覇権を、李希烈は汴州・東都など河南の覇権を求めて戦意旺盛
王武俊は旧成德の、李納は旧淄青の継承を求めているだけ。
田悦はうち続く敗北によってすっかり弱体化 という所です。
唐朝軍は朔方・河東・昭義軍は強いのですが、永平の李勉[文官]は弱く、宣武[劉洽]に支えてもらっている状況です。また財政的には破綻状態でした。