天寶十五載/至德元年[756]-2
◎.正月 南陽郡太守魯炅は南陽節度使として、率嶺南、黔中、山南東道兵を率いて
安禄山軍と戦った。
◎.5月 魯炅軍は敗北し、南陽に籠城した。夷陵太守虢王巨が河南節度使として
嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、南陽節度使魯炅を率いてして支援した。
◎.10月 北海太守として安禄山軍と戦ってきた賀蘭進明が肅宗の元に逃れてきた。
功績により南海太守摂御史大夫充嶺南節度使に任ぜられた。
肅宗としては摂御史大夫ではなく、正任の御史大夫に任じたつもりであったが、
進明とあわない宰相房琯は「摂」をつけて格下げした。
しかし進明は赴任せずすぐ御史大夫河南節度使に転じた。
◎.是年 嶺南溪獠梁崇牽は反して容州を陥した。
至德二年[757]
◎.是年 韋利見が廣州刺史嶺南節度使として赴任したようである。
乾元元年[758]
◎.9月 大食國、波斯國兵が廣州城を攻め、刺史韋利見は城を棄てて敗走した。
賊は掠奪して去った。実際は外寇ではなく海賊の襲來であったとみられる。
◎.10月 濮州刺史張萬頃/方須が廣州都督五府節度使として赴任し鎮静化させる。
萬頃は旧安禄山下より帰順した將である。
◎. 置韶連郴三州都團練守捉使,治韶州。
上元元年[760]
◎.10月 浙東觀察使御史中丞趙良弼が御史中丞嶺南節度使となった。
◎. 張萬頃は県尉に貶せられたようである。罪状は不明。
上元二年
◎. 廢韶連郴都團練使,三州復隸嶺南節度。
◎. 羅、潘二州隸邕管觀察使。
寶應元年[762]
◎. 衛尉卿洪州都督の張休が御史中丞廣州刺史嶺南節度經略觀察等使となる。
趙良弼は太子賓客となった。
廣徳元年[763]
◎.11/12月 宦官廣州市舶使呂太一が乱し、張休は端州に奔った。
◎. 新旧唐書伝には饒州刺史韋倫が韶州刺史兼御史中丞韶連柳三州都團練使
として呂太一の乱の鎮圧を命ぜられ[太一の反間に陥れられ。免ぜられて
信州司馬に貶]とある。新唐書の方鎭表の韶連柳三州都團練使[乾元元年
~上元二年]の記載とは合わない。
廣徳二年[764]
◎. 同州刺史?楊督微が御史中丞嶺南節度使となり大暦二年[767]
4月以前に卒するまで在任した。
◎.正月 南陽郡太守魯炅は南陽節度使として、率嶺南、黔中、山南東道兵を率いて
安禄山軍と戦った。
◎.5月 魯炅軍は敗北し、南陽に籠城した。夷陵太守虢王巨が河南節度使として
嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、南陽節度使魯炅を率いてして支援した。
◎.10月 北海太守として安禄山軍と戦ってきた賀蘭進明が肅宗の元に逃れてきた。
功績により南海太守摂御史大夫充嶺南節度使に任ぜられた。
肅宗としては摂御史大夫ではなく、正任の御史大夫に任じたつもりであったが、
進明とあわない宰相房琯は「摂」をつけて格下げした。
しかし進明は赴任せずすぐ御史大夫河南節度使に転じた。
◎.是年 嶺南溪獠梁崇牽は反して容州を陥した。
至德二年[757]
◎.是年 韋利見が廣州刺史嶺南節度使として赴任したようである。
乾元元年[758]
◎.9月 大食國、波斯國兵が廣州城を攻め、刺史韋利見は城を棄てて敗走した。
賊は掠奪して去った。実際は外寇ではなく海賊の襲來であったとみられる。
◎.10月 濮州刺史張萬頃/方須が廣州都督五府節度使として赴任し鎮静化させる。
萬頃は旧安禄山下より帰順した將である。
◎. 置韶連郴三州都團練守捉使,治韶州。
上元元年[760]
◎.10月 浙東觀察使御史中丞趙良弼が御史中丞嶺南節度使となった。
◎. 張萬頃は県尉に貶せられたようである。罪状は不明。
上元二年
◎. 廢韶連郴都團練使,三州復隸嶺南節度。
◎. 羅、潘二州隸邕管觀察使。
寶應元年[762]
◎. 衛尉卿洪州都督の張休が御史中丞廣州刺史嶺南節度經略觀察等使となる。
趙良弼は太子賓客となった。
廣徳元年[763]
◎.11/12月 宦官廣州市舶使呂太一が乱し、張休は端州に奔った。
◎. 新旧唐書伝には饒州刺史韋倫が韶州刺史兼御史中丞韶連柳三州都團練使
として呂太一の乱の鎮圧を命ぜられ[太一の反間に陥れられ。免ぜられて
信州司馬に貶]とある。新唐書の方鎭表の韶連柳三州都團練使[乾元元年
~上元二年]の記載とは合わない。
廣徳二年[764]
◎. 同州刺史?楊督微が御史中丞嶺南節度使となり大暦二年[767]
4月以前に卒するまで在任した。