唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使史 その4

2021-02-08 10:00:54 | Weblog
大暦二年[767]
◎.4/5月 工部侍郎徐浩が、嶺南節度觀察使兼御史大夫として赴任
した。文雅で有名であったが聚斂につとめ貨財を増やし、愛妾に左右されていた。

大暦三年[768]
◎.冬 銀靑光禄大夫吏部侍郎集賢殿學士副知院事となり典選にあたった。
◎.10月 宦官魚朝恩に逐われた廉潔な京兆尹兼御史大夫李勉が廣州刺史
兼嶺南節度觀察使兼御史大夫となった。

大暦六年[771]
◎. 嶺南蠻酋梁崇牽は平南十道大都統と自称して,756年より容州を占拠し、
西原蠻張侯や夏永と連結し、城邑を占拠していた。
そのため従来の容管經略使は容州に入れず藤/梧州に僑治していた。
新任の經略使王翃は私財で募兵し、賊帥歐陽珪を斬り、嶺南節度使李勉に
支援を求めた,武将ではない勉は逡巡したが、翃は撃つと宣言してくれるだ
けで良いと求めた。そして現地の蕃族義州刺史陳仁璀、藤州刺史李曉庭を
動員して容州を回復し、梁崇牽を捕らえた。
また西原蠻を破り鬱林諸州を回復した。嶺南版図の番禺賊帥馮崇道や桂州
叛將朱濟時も十餘州を占拠していたが、勉は將李觀を翃に協力させて悉く
討滅させた。

大暦七年[772]
◎.11月 李勉は工部尚書となった。勉は廉潔で富裕な廣州にいたが私財を
築かず、代宗は極めて信任していた。
そしてすぐ歸附してきた永平節度使令狐彰の後任に補された。
◎.10月 軍人大府卿鄆國公呂崇賁が廣州都督嶺南節度使となった。

大暦八年[773]
◎.3月 部將循州刺史哥舒晃が呂崇賁を殺し、反乱を起こした。
◎.10月 江西観察使路嗣恭を廣州刺史充嶺南節度使封翼國公とし、
晃を討伐させた。しかし嶺南の現地勢力は哥舒晃に与党し、暑熱
でもあり征討は困難であった。

大暦10年[775]
◎.2月 睦王述が遥領嶺南節度支度営田五府經略観察處置等大使。
◎.11月 路嗣恭は流人孟瑤、敬冕を將として起用し廣州に入り、哥舒晃や
その徒党萬餘人を誅殺し京観を築いた。

大暦12年[777]
◎.12月 嶺南節度使兼江西観察使路嗣恭は檢校兵部尚書知省事となった。
代宗は嗣恭の征討の功績は認めたが、廣州を掠奪し莫大な宝物を私物化し
たとして最初は遇しなかった。嗣恭麾下虔州別駕李泌が代宗に取りなして
任用させた。
◎.5月 軍人前安南都護張伯儀が廣州刺史兼御史大夫充嶺南節度使となった。

建中三年[782]
◎.3月 張伯儀は檢校兵部尚書兼御史大夫荊南節度使に転じた
◎.3月 容管経略使元琇が嶺南節度使となった。