天寶三載[744]
南海郡太守は劉巨鱗で呉令光討伐にあたっていた?
天寶四載[745]
◎.5月 刑部尚書裴敦復が嶺南五府經略等使となったが、なかなか赴任せず、淄川太守に貶せられた。
代わって光祿少卿彭杲が任ぜられた。敦復は三載に河南尹から、台、明州を掠奪した海賊呉令光を討
った功績を賞されたのであるが、裴寬派に属するため宰相李林甫の排斥をうけ陥れられた。
天寶五載[746]
◎. 嶺南五府節度經略采訪處置等使攝禦史中丞殿中監南康縣伯張九皋/九章[元宰相九齡の弟]は、
楊貴妃が玄宗の寵愛を受け、ひたすら迎合し、宝物・茘枝を献上して銀青光祿大夫[従三品]を得た。
天寶六載[747]
◎.2/3月 嶺南五府經略採訪使光祿少卿兼南海郡太守攝御史中丞彭果/杲は坐贓により流罪となった。
天寶八載[749]
◎.5月 南海太守劉巨鱗が坐贓により殺された。
天寶十載[751]
◎. 漳、潮二州が福建より嶺南經略使に移管された。
天寶十二年[753]
◎.5月 左武衛大將軍何復光/履光が嶺南五府兵を率いて南詔を撃った。
天寶十三年[754]
◎. この頃、何復光/履光は嶺南経略使となったようである[十五載まで]。
天寶十五載/至德元年[756]
◎.7月 五府経略討撃使を嶺南節度使に昇格させ、廣.韶.循.潮.康.瀧.端.新.
封.春.勤.羅.潘.高.恩.雷.崖.瓊.振.儋.萬安.藤二十二州を領し、廣州を治所とした。
領州は多いが過半は蕃地である。
南海郡太守は劉巨鱗で呉令光討伐にあたっていた?
天寶四載[745]
◎.5月 刑部尚書裴敦復が嶺南五府經略等使となったが、なかなか赴任せず、淄川太守に貶せられた。
代わって光祿少卿彭杲が任ぜられた。敦復は三載に河南尹から、台、明州を掠奪した海賊呉令光を討
った功績を賞されたのであるが、裴寬派に属するため宰相李林甫の排斥をうけ陥れられた。
天寶五載[746]
◎. 嶺南五府節度經略采訪處置等使攝禦史中丞殿中監南康縣伯張九皋/九章[元宰相九齡の弟]は、
楊貴妃が玄宗の寵愛を受け、ひたすら迎合し、宝物・茘枝を献上して銀青光祿大夫[従三品]を得た。
天寶六載[747]
◎.2/3月 嶺南五府經略採訪使光祿少卿兼南海郡太守攝御史中丞彭果/杲は坐贓により流罪となった。
天寶八載[749]
◎.5月 南海太守劉巨鱗が坐贓により殺された。
天寶十載[751]
◎. 漳、潮二州が福建より嶺南經略使に移管された。
天寶十二年[753]
◎.5月 左武衛大將軍何復光/履光が嶺南五府兵を率いて南詔を撃った。
天寶十三年[754]
◎. この頃、何復光/履光は嶺南経略使となったようである[十五載まで]。
天寶十五載/至德元年[756]
◎.7月 五府経略討撃使を嶺南節度使に昇格させ、廣.韶.循.潮.康.瀧.端.新.
封.春.勤.羅.潘.高.恩.雷.崖.瓊.振.儋.萬安.藤二十二州を領し、廣州を治所とした。
領州は多いが過半は蕃地である。