唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使史 その7

2021-02-11 10:00:42 | Weblog
長慶四年[824]
◎.10月 鄭權は卒した。
◎.10月 謹厚ではあったが宰相としての器量がなかった檢校兵部尚書
鄂岳觀察使崔植[字公修.宰相祐甫の養子]が檢校吏部尚書兼廣州刺史
御史大夫充嶺南節度觀察經略使となる。

寶暦二年[826]
◎. 崔植は戸部尚書へ
◎.11月 戸部尚書判度支胡證が檢校兵部尚書兼廣州刺史充嶺南節度使
となる。

太和二年[828]
◎.10月 収斂して巨富を築き胡證は卒した。為に太和九年甘露の変が
起こると、神策軍の兵士は掠奪し、胡宅に乱入し子の殷を殺害した。
◎.10月 副元帥李晟の子だが晟・愬・聴などの兄弟達とは違い文官を
めざした江西観察使李憲が檢校左散騎常侍兼御史大夫嶺南節度觀察等
使となる。吏才があり能政・守法で良政を敷いた。

太和三年[829]
◎7/8月 李憲は卒した。
◎.7月 京兆尹崔護が御史大夫嶺南節度使となる。

太和四年[830]
◎. 崔護 不明。

太和五年[831]
◎.2月 桂管觀察使李諒が嶺南節度使となる。

太和七年[833]
◎.3月 李諒は卒した。
◎.正月 大府卿崔珙が嶺南節度使となったが、赴任の挨拶で、
王智興が甘やかし難治の武寧軍節度についての経綸を述べ、
感心した文宗皇帝はただちに檢校工部尚書武寧軍節度使に変更
した[崔珙はよく横暴な武寧牙軍を抑えたという]。
◎.正月 代わりに左金吾将軍王茂元が檢校工部尚書廣州刺史
嶺南節度使となる。

太和九年[835]
◎.10月 王茂元は聚斂蓄財して鄭注に贈賄して涇原節度使となる
[このため甘露の変に巻き添えになりそうになり、資産を宦官に
渡して免れる]
◎.4月 桂管觀察使李從易/從簡が嶺南節度使となる。

開成元年[836]
◎.12月 李從易は卒した。
◎.12月 華州刺史盧鈞が廣州刺史御史大夫嶺南節度使となった。
鈞は廉政で知られ人望が高かった。嶺南は賄帥や宦官達の収奪の
巣窟となっていたため珍しい人事であった。

開成四年[839]
◎. 嶺南の諸州は州縣官は僥倖達の食いものになっていて、
考試などもろくに行われていないという現状であった。

開成五年[840]
◎.12月 盧鈞は戸部侍郎/山東節度使

會昌元年~二年の嶺南節度使は不明。

會昌三年[843]
◎. 高暈が嶺南節度使となる。詳細不明。

會昌四年[844]
◎. 宣歙観察使崔龜從が中散大夫検校禮部尚書兼御史大夫充嶺南
節度等使となる。

會昌五年[845]
◎. 崔龜從 後年戸部侍郎から宰相へ
◎. 河南尹盧貞が嶺南節度使となる。

會昌六年[846]
◎. 盧貞 後年、陝虢観察使に?

大中元年[847]
◎. ? 李玭が嶺南節度使となる。

大中二年[848]
◎. 李玭は鳳翔隴右節度使へ?
◎. ? 李行修[祐の子]が嶺南節度使となる。

大中三年[849]
◎. 李行修は卒した。
◎. 同州刺史韋正貫が嶺南節度使となる。

大中五年[851]
◎.7月 韋正貫は卒した。
◎. 前江西観察使紇干臮が嶺南節度使となる。

大中八年[854]
◎. 紇干臮は慶王府長史に貶された/河陽節度使說。

大中九年[855]
◎. ? 韋曙が嶺南節度使となる。

大中十一年[857]
◎. 嶺南溪洞洞蠻が侵盜した。

大中十二年[858]
◎.正月 韋曙は卒した。
◎.3月 御史中丞福建観察使楊發が太中大夫檢校右常侍
廣州刺史御史大夫充嶺南節度觀察處置等使となった。
發は能政で知られ腐敗しきっていた嶺南の政治を是正する
ことを期待されていた。
◎.4月 しかし腐敗しきっていた牙軍は暴発し、都將王令寰
が乱し、發を執えた。やむをえず婺州刺史に貶せられた。
◎.5月 右金吾大将軍李璲が嶺南節度使となるが、給事中
蕭倣は不適任であると封還し取り消された。
◎.5月 軍人涇原節度使李承勛/承勳[光弼の孫]が嶺南節度
使となり隣道の兵をもちいて乱を鎮圧した。

大中十三年[859]
◎. 李承勛 転出先不明
◎. 宰相司空門下侍郎同平章事蕭倣が同僚に清廉さを疎まれ
嶺南節度使となる。節度使としても清廉で財を築かなかったという。

咸通元年[860]
◎. 蕭倣 転出先不明