唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使史 その8

2021-02-14 11:34:58 | Weblog
咸通元年[860]
◎. 蕭倣 転出先不明

咸通二年[861]
◎. 江西観察使韋宙が嶺南節度使となる。

咸通三年[862]
◎.5月 嶺南節度を嶺南東道節度に、邕管を嶺南西道節度とし、韋宙は嶺南東道節度使となる。蔡京の対雲南蠻政策による制度変更である。
◎.12月 安南蔡襲が雲南蠻の侵攻に対処するため増援を求めたが、韋宙は来寇は邕管のほうだと主張して認めなかった。

咸通四年[863]
◎.正月 雲南蠻は安南を襲撃し、都護蔡襲以下が潰滅した。
◎.8月 韋宙は再び邕管が攻撃されるとし、藤州に派兵した。

咸通五年[864]
◎.3月 雲南蠻は邕管を攻囲し唐軍は大敗したが、経略使康承訓は勝利したと報告。
◎.7月 韋宙は康承訓の虚偽を弾劾し処罰させた。

咸通八年[867]
◎.12月 韋宙は嶺南経略の功績により、検校尚書左僕射同平章事を加えられた。嶺南節度使として最初の使相である。

咸通九年[868]
◎. 韋宙は鎭で卒した。
◎.5月 文官邕管經略使鄭愚が廣州刺史充嶺南東道節度觀察處置等使となった?。

咸通十二年[871]
◎. 鄭愚は不明。
◎.12月 能政で知られた檢校戸部尚書汴州刺史御史大夫宣武軍節度使鄭從讜は宰相に任用されることを怖れられ廣州刺史嶺南東道節度觀察處置等使に遷された。従讜は現地兵を登用し軍備を強化した。しかし暑熱を厭い帰任を求めた。

乾符元年[874]
◎.5月 鄭従讜は刑部尚書となった。
◎.5月 吏部侍郎韋荷が檢校禮部尚書廣州刺史嶺南東道節度使となった。

乾符三年[876]
◎. 韋荷?

乾符四年[877]
◎. ?李迢/巖が嶺東節度使に

乾符六年[879]
◎.5月 黄巣軍が福建を通って南下し廣州を陥し、節度使李迢/巖を捕らえ、郡県を掠奪した。
◎.5月 黄巣は捕らえていた浙東観察崔璆・嶺南節度李迢に強いて、故郷である天平節度使を求めたが却下され、さらに嶺東節度使を求めたが貿易の利を重視する唐朝は認めなかった。
◎.8月 鎮海節度使高駢は全軍を率いて廣州の黄巣を討つことを求めたが認可されなかった。この頃朝廷では宰相鄭畋・盧攜等が事ごとに争って、無能な僖宗皇帝は裁決できなかった。
◎.10月 炎暑の廣州では、暑さに慣れない黄巣軍は多く病死し、衆は北上帰郷を求めた。やむをえず黄巣は崔璆・李迢を帯同し北上して湖南に入った。
◎. 黄巣の棄てた廣州に?鄭續が入り嶺東節度使となった。
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