唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

嶺南節度使史 その6

2021-02-10 10:00:40 | Weblog
元和三年[808]
◎.4月 趙昌は荊南節度使へ転じる。
◎.4月 戸部侍郎楊於陵が嶺南節度使となった。
賢良方正直言極諫試験において牛僧孺、皇甫湜、李宗閔等が、宰相李吉甫の政治を糾弾
したため、吉甫はそれを優等とした翰林學士裴垍、王涯等を排斥した。
於陵もまたそれに坐して出された。

元和四年[809]
◎.この頃 嶺南諸州の大半の刺史は名目だけで欠員となっていて、判官より選んで知州
事としていた。また判官も左遷されてきた流人が多かった。

元和五年[810]
◎.7月 楊於陵は吏部侍郎へ
宦官嶺南監軍許遂振は廉直な於陵と合わず、誹謗中傷を上申を繰り返し3月解任させた。
憲宗は帰京してきた於陵を閑職にしようとしたが、学士裴垍等に実情を教えられ要官で
ある吏部侍郎に任じ、かえって遂振を左遷した。 
◎.3月 宰相としては無能で太子賓客となっていた鄭絪が檢校禮部尚書廣州刺史嶺南節度使に。

元和八年[813]
◎.5月 廉政であった鄭絪は工部尚書へ。
◎.12月 桂管觀察使馬總が嶺南節度使に。

元和十一年[816] 
◎. 馬總は刑部侍郎へ

元和十二年[817]
◎. 桂管觀察使崔詠が嶺南節度使に。
◎.7月 崔詠は卒した。
◎.7月 国子祭酒孔戣が廣州刺史兼御史大夫嶺南節度使に。
詠の後任に憲宗は節倹を上奏していた孔戣を選んだ。戣は廉政をしき、人身売買
を禁じ、吏員の不法を抑えた。

元和十四年[819]
◎. 桂管・容管領域で盛んに蕃族討伐が行われ、二管は疲弊したが、嶺南孔戣は
派兵せずは安定していた。しかし安南で楊淸が反し、討伐することとなった。

元和十五年[820]
◎.9月 前嶺南節度使孔戣は吏部侍郎に。
◎.9月 將作監崔能[字子才.從の兄]が廣州刺史兼御史大夫嶺南節度使に。

長慶三年[823]
◎. 崔能は卒した。
◎.4月 敏腕であった工部尚書鄭權は宦官に贈賄して檢校右僕射廣州刺史
嶺南節度使となった。妾が多くて工部尚書の給与では養えないという理由
には、宦官達も呆れかえったようである。当然赴任して聚斂贈賄に努めた。

長慶四年[824]
◎.10月 鄭權は卒した。