安史の乱も史思明が子朝義に殺され終息が見えてきましたが、まだまだ征討が終わってはいませんでした。定見無く無能な肅宗皇帝と宦官李輔國は、軍人への不信感は強く、特に異民族以外の軍人は敬遠する傾向がありました。当時河東道地域に集結した朔方軍中心の唐軍も、主帥郭子儀を警戒し、文官の李國貞を都統としました。國貞は有能な官僚ですが、軍人ではありません。
上元2年8月
殿中監李若幽[賜名され國貞]を戸部尚書朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使とし、絳州に屯させました。
元年建卯月
河東軍に軍乱が起き、文官の節度使鄧景山が殺されました。
当時絳州には軍糧の蓄積はなく、將士は不満でした。國貞は供給を求めましたが得られません。
突將王元振は乱を企み、將士に「都統はこの食糧不足の時に、我々に自宅の修築の手伝いを命令されている」と告げました。もともと荒れていた將士は「我々は土方扱いか」と暴発し、都統宅を襲撃し國貞を殺しました。
翼城に屯していた鎮西北庭行営兵も乱し、節度使荔非元禮を殺し、裨將白孝德を擁立しました。
河東道全域の軍が反乱を起こし、当時肅宗皇帝は重病でもあり朝廷は動揺しました。
最後の頼みの綱として、敬遠していた郭子儀を汾陽郡王知朔方河中北庭潞澤節度行營兼興平定國等軍副元帥とし、京師にあった絹四萬匹、布五萬端、米六萬石を浚えて鎮圧を依頼しました。
元年建辰月
子儀は李輔國等が事を左右する事を熟知していましたので、病中の肅宗皇帝に圧して拝謁し、直接の全権委任を受けてから進発しました。
寶應元年四月
肅宗皇帝は崩御しました。李輔國が代宗皇帝を擁立し、張皇后や趙王を殺しました。
子儀が軍に到達すると、將士達は直ちに服しました。
寶應元年5月
子儀は元振や同謀四十人を誅し規律を取り戻しました。河東軍でも粛清が行われました。
寶應元年8月
しかし子儀が京師に戻ると、宦官程元振は誣告し、副元帥・節度使は解任され兵権を解かれました。
軍人達の唐朝への不信感は増大するばかりです。
上元2年8月
殿中監李若幽[賜名され國貞]を戸部尚書朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使とし、絳州に屯させました。
元年建卯月
河東軍に軍乱が起き、文官の節度使鄧景山が殺されました。
当時絳州には軍糧の蓄積はなく、將士は不満でした。國貞は供給を求めましたが得られません。
突將王元振は乱を企み、將士に「都統はこの食糧不足の時に、我々に自宅の修築の手伝いを命令されている」と告げました。もともと荒れていた將士は「我々は土方扱いか」と暴発し、都統宅を襲撃し國貞を殺しました。
翼城に屯していた鎮西北庭行営兵も乱し、節度使荔非元禮を殺し、裨將白孝德を擁立しました。
河東道全域の軍が反乱を起こし、当時肅宗皇帝は重病でもあり朝廷は動揺しました。
最後の頼みの綱として、敬遠していた郭子儀を汾陽郡王知朔方河中北庭潞澤節度行營兼興平定國等軍副元帥とし、京師にあった絹四萬匹、布五萬端、米六萬石を浚えて鎮圧を依頼しました。
元年建辰月
子儀は李輔國等が事を左右する事を熟知していましたので、病中の肅宗皇帝に圧して拝謁し、直接の全権委任を受けてから進発しました。
寶應元年四月
肅宗皇帝は崩御しました。李輔國が代宗皇帝を擁立し、張皇后や趙王を殺しました。
子儀が軍に到達すると、將士達は直ちに服しました。
寶應元年5月
子儀は元振や同謀四十人を誅し規律を取り戻しました。河東軍でも粛清が行われました。
寶應元年8月
しかし子儀が京師に戻ると、宦官程元振は誣告し、副元帥・節度使は解任され兵権を解かれました。
軍人達の唐朝への不信感は増大するばかりです。