今までの反乱記録を集約しました。まだ多少の追加後、編集して完成版にします。
唐の反乱年表[xls] を掲載しました。
各リンクから該当の反乱の詳細[pdf]を見ることができます。
安禄山の腹心であった史思明は、反乱後河東・河北で活躍していましたが、安慶緒による禄山暗殺後には態度を鮮明にせず幽州で范陽節度使として半自立体制を取りました。
至德2年12月
唐朝が両京を回復し安慶緒が相州に逃亡すると、思明は偽河東節度使高秀巖とともに帰朝しました。
肅宗皇帝は歸義王范陽節度使に任じました。滄、瀛、深、德、棣等州は皆思明に附きました。
これにより慶緒は追いつめられ乱の平定は近いと思われました。
ところが宰相張鎬は思明の歸順を疑っていました。
幽州内部でも節度副使烏承恩や派遣されて来た宦官李思敬は副元帥李光弼と通じて思明を除く陰謀をめぐらしていました。当然肅宗皇帝もそれを承認していたとみられます。まだ安慶緒が相州で戦っている時期であるのに極めて軽率であったと思われます。
乾元元年6月
史思明は陰謀を知り、承恩父子や連坐するもの二百餘人を殺しました。そして光弼を弾劾しました。
乾元元年10月
慶緒の救援要請を無視してきましたが、ついに思明は幽州軍13万を上げて南下し来援することにしました。これにより安史の乱はまだまだ継続することになります。
肅宗皇帝の定見の無さや無能さを考えると、唐朝が滅亡しなかったのが不思議です。
至德2年12月
唐朝が両京を回復し安慶緒が相州に逃亡すると、思明は偽河東節度使高秀巖とともに帰朝しました。
肅宗皇帝は歸義王范陽節度使に任じました。滄、瀛、深、德、棣等州は皆思明に附きました。
これにより慶緒は追いつめられ乱の平定は近いと思われました。
ところが宰相張鎬は思明の歸順を疑っていました。
幽州内部でも節度副使烏承恩や派遣されて来た宦官李思敬は副元帥李光弼と通じて思明を除く陰謀をめぐらしていました。当然肅宗皇帝もそれを承認していたとみられます。まだ安慶緒が相州で戦っている時期であるのに極めて軽率であったと思われます。
乾元元年6月
史思明は陰謀を知り、承恩父子や連坐するもの二百餘人を殺しました。そして光弼を弾劾しました。
乾元元年10月
慶緒の救援要請を無視してきましたが、ついに思明は幽州軍13万を上げて南下し来援することにしました。これにより安史の乱はまだまだ継続することになります。
肅宗皇帝の定見の無さや無能さを考えると、唐朝が滅亡しなかったのが不思議です。