唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

甘露の変

2023-02-05 08:00:06 | Weblog
文宗皇帝は擁立してくれた宦官勢力が疎ましくなり、幹部宦官を排除するために宋申錫を用いて画策したが、宦官王守澄に先手をうたれ失敗しました。その後も画策しましたが、党争しか頭にない旧来の官僚[牛李の党]に失望し、その頭領たる李德裕・李宗閔を共に排除し、理財家王涯や第三勢力の李訓等を登用してきました。次々と新登用がありましたが、官僚達も文宗皇帝が党争を制圧するための対策と理解していました。

大和9年6月
左神策中尉韋元素、樞密使楊承和、王踐言を地方に追い、9月には守澄の実権を奪い、10月には毒殺しました。しかしこれらは後継の中尉仇士良や魚志弘の支援があってこそでした。宦官勢力も一丸ではなく、旧勢力の退陣は歓迎するところでした。

宰相陣の中では李訓・舒元輿が加担し、京師近隣の邠寧節度に郭行餘、鳳翔節度に鄭注、河東節度に王璠を配置し、權知京兆尹事に羅立言・金吾大将軍に韓約を任じて警察権を掌握させました。

大和9年11月
最初の計画では鄭注麾下の壮士が王守澄の葬儀時に、中尉以下の上級宦官達を殺害する予定でした。
文宗皇帝の計画は宦官全てを除くつもりではなく、軍權を持つ高位宦官を排除するというものです。

ところが功績を鄭注に独占されることを懼れた李訓・舒元輿等は別計画を実行することにしました。

まず金吾大将軍韓約が「夜間に宮殿の石榴に甘露が降りました」と瑞兆を上奏しました。
まず訓など宰相が甘露を視察し「よくわからない」と報告しました。
文宗は左、右中尉仇士良、魚志弘に宦官を率いて精査してくるように命じました。
仇士良等が甘露を見ていると、韓約が脅えて動揺し、怪しんだ士良は兵士が動員されているのを見つけます。
士良等はすばやく逃走し、文宗皇帝を拉致して宮殿に戻りました。
訓達は兵と共に追いましたが逃げられてしまいました。

士良等は文宗が加担していることを知り、激怒して神策軍を派遣し宰相や官僚達を殺害して回りました。
宰相王涯や賈餗は加担していないにもかかわらず殺されました。

李訓・舒元輿は逃走しましたが殺され、鄭注も鳳翔で殺されました。

神策軍は荒れ狂い宰相一族や富裕な家を襲い大掠しましたが、抑えることはできませんでした。

士良等は文宗廃位も考えましたが、まだ宦官達だけでは体制づくりをするだけの自信はなく、官僚達の賛成を得られるとは思えませんでした。また弑殺するだけの度胸も準備もありません。

そこで鄭覃や李石等を宰相に任じ、文宗皇帝を威嚇して自分達の要求を通すことにしました。

宦官達の専権と圧迫は続きました。

開成元年2月
昭義節度使劉従諫が「宰相王涯等はなぜ殺されたのか、罪名を明らかにして欲しい」と上奏し、回答がないなら入朝して聞くという姿勢を示しました。当然軍を率いていくつもりです。

王涯や賈餗は訓に加担していないにもかかわらず、士良等が勝手に殺害したわけです。
上奏を知った士良等は脅えました。そして文宗に従諫を宥めるように願い出ました。
当時の神策軍は腐敗し、昭義軍程度でも勝算はたたず、周囲の軍も支援してくれるかどうか不安な状況でした。
文宗や宰相達は上奏を利用して宦官達の過剰な要求を抑えていきました。